ほんとうに無限の可能性なんて、あんの?

自己を啓発したいときや、心のことを学んだとき、いちどは聞いたことがあるだろう。「あなたには無限の可能性がある」という言葉。

私も、耳にタコができるくらい聞いてきた。実際、どこでも安易に使われているかのように、特に英語を日本語に翻訳したような本には頻出する。
「あなたには無限の可能性がある」というのは本当なんだろうか。本当なんだろうか?と疑っているうちは、その言葉をいくら言われようが、ブツブツつぶやこうがなんの効力もない。ないどころか、現実とのギャップに落ち込みと、不快感すら広がっていく。きわめつけは、その言葉を心から信じちゃーいない人に「あなたには無限の可能性がある」とか言われようもんなら、シバき回したくなるだろう。知らんわ。

ただ、そんだけあちこちで言われるんだから、なんらかの意味はあるに違いない、とも思うわけだ。
これについて、むちゃくちゃドライに冷静に考えてみよう。

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まずは、現実的な面から考えてみる。
私はちょうど四十路どっぷり真っ最中なわけだけど、確実に肉体の限界を感じる。リアルに感じる。ひしひしと感じる。このまま何もライフスタイルを変えずにいると、肉だけわんさとついた枯れ枝のようにヨレヨレなることは禁じ得ないであろう。しょっぱなから、無限の可能性どこへやら。

ただ、限界を感じるからやり始めることが、ある。

20代の頃は思いつきでしかやってなかった運動。
やらなくてもグッスリ寝さえすれば、翌朝調子がいいからやらない。それ=「寝さえすればいい」、が黄金ルールだったのが、30代のある時急に通用しなくなる。仕事しているからいいや、と思っていたが、それは断じて「運動」ではない。ということにハタと気づく。

そうなってからちゃんと始めたのがヨガだ。そして唯一続いてる運動だ。肉体だけじゃなく、気のメンテナンスにもなる。イライラや頭痛やストレスも緩和する。これのおかげか、とりあえず今までは大事に至ることなくきている。

20代の頃の肉体は、いうたら「無限の可能性」だ。
が、ただ単に、目に見える条件面だけ「無限」だったとしたら、実はなにもできないんだ。選択肢だけ膨大に広がっていて、あれもこれもと目移りはするものの、ほんとうの良さや面白さには気づけずにいる。
でも、30代超えてそうでもないぞ…?と気づきだすと、とたんに運動の可能性が目の前に広がってくる。中には、筋トレ始めてむしろマッチョになる人さえいるだろう。

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ちなみに。
「可能性」ってさぁ。そう言っとけばいちおう「いい風」には聞こえると思ってるっしょ?でも、この現実世界には何も顕れていないからこそ、「可能性」のままでとどまっていられるってこと、分かるだろうか。

いうなれば「可能性」は、買ってきたそのままの粘土だ。何のカタチも作っていないから当然、その粘土には「無限の可能性がある」。でもそれはなんでもないただの粘土といえば粘土だ。
その粘土がある時、ウサギさんのカタチになったとする。そうすると、そのウサギさんはネコさんになる可能性を逸したわけだ。ひょっとすると、粘土が乾かないうちはぐにゃっとつぶせば次にネコさんになるかもしれない。でも、今度はそれまで「ウサギさんだった」自分を失うわけだ。可能性というのは、かくも儚いものなんだ。何が言いたいか分からなくなっていってるようだが、たぶん大丈夫だw

つまり、現実的な面からしてみると、「ひとつの可能性を失うことで、別の新たな可能性をカタチに変えることができる」ということだ。肉体の例でいうと、若さを失うことで、精神の安定と肉体の柔軟性を得る必要性を感じ、その可能性をカタチにできた。

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そして、ちょっとここから深めてみる。

ウサギさんになった粘土のおハナシに戻ってみよう。ウサギさんを作ると言っても、カタチはひとつではない。いろんなデザインの可能性が含まれている。ひらべったいイラストのようなウサギさんを作ってもいいし、立体的でもいい。リアルな4本足のウサギさんを作ってもいいし、シルバニアファミリーみたいに、人間ぽい身体のウサギさんでもいい。
そしたら、デザインを深めていく。毛並みはどんなだろう。毛色はどんなだろう。服は着ているのだろうか。目は?表情は?耳の長さは?

ひとつ、別のデザインになる可能性を失うごとに、「そのデザインである」ための道はどんどんと絞られていく。そして洗練され、さらに細かい選択肢へと私たちをみちびく。つまり、可能性を失わないと次の可能性は顕れてこない。逆にいうと、(見た目の)可能性を失ってなにかをひとつえらぶと、その先にまた無限の選択肢=可能性があらわれるのだ。これは、粘土を目の前にして「何つくろう…」とぼんやり考えていたときには、とうてい見えもしなかった可能性だ。

そこまで視野を広げてみたときに、初めて私たちは思う。
「粘土のままの時の可能性なんて、サッサと捨てておけばよかった…」と。ウサギと決めてからの方がやることが多いじゃんかと。決まってないことも、決めるべきことも多い。学ぶことも、工夫することも無限に多い。しかし寿命という、誰にでも「明らかに有限」な可能性はどんどんと迫ってくる。「無限の可能性ってあるんだろうかねー」などとのんきに考えていた自分を呪いたいくらいだ。このブログがまさにそれだよw

こういう視点で見てみると、どうやら人には「無限の可能性がある」と考えてもいいんじゃないだろうか。
それは、可能性をひとつに絞ったときにしか見えてこない。そして、限界や挫折を迎えたときに、実はもっともっと見えてくる。
だから、ホントの限界がくる前に、いったん可能性、絞ってみようや。というなんとも贅沢なおハナシになってくるんだ。ここまでくると、何もやってない人にはやっぱり一周回って、信じる信じないの話になっちゃうかもね。

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で、この考察にはまだ続きがあるんだw マジで時間の無駄だやめとけw
前回記事でこの世の構造を「アタマ、五感、感情、魂」に仮にわけて書いてみた。 ⇒ 「生きづらい」の正体、私の視点から。

これをもとに、「無限の可能性」についてまた考えてみようと思う。興味ある人は読んでおいてね。

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