「生きづらい」の正体、私の視点から。

昨日、散歩していたら、ちょっとだけこの世の構造が整理できた。あくまで、私の身体による体験がもとだけど、ちょっとメモしておく。

ある一定数、「この世の中に合わせづらい、生きづらい」という人が出てくるのはなぜか。もしくは、合わせられている人でもちょっとだけ辛かったりする。

この世の中は、主に「アタマで理解できる」ことを前提として作られている。
もうこの時点で、うぁあああぁわぁ、である。そして時代が進むほど、アタマがいい人の手によって、この世の理解は進んでいく。発展できていってすごいな。すごい。すごいものの、私のようにうぁあああぁわぁ、な人はその理解に自分のアタマがついていかない。この時点でまあまあ、終わっている。

そして、「アタマで理解できること」というのは、客観視・測定・論理的判断が可能なので、人と共有できる(と思われている)。ココが困ったところなんだ。

すべての人間には、そこに五感や感情という個人差が乗っかってくるからだ。これは、かなりの割合で見過ごされがちだ。アタマが理解することのみ起こってほしい、という願いとはうらはらに、五感や感情はすれ違いを生む。
※話はズレるが、お役所仕事でハンコをもらうのに手間取るのは、あくまでアタマで共有しようとしていることにこだわる上に、それを感情がジャマするからだ(しかも気づかぬうちに)。

五感のズレや感情というものは、世の中には「あるには、ある」と認知されているが、それでも「ない」ことにされている。マジで意味が分からない。行き場を失った五感や感情は、映画とかプロレスでも見て落ち着かせなさい、となる。
この時点でもう、「アタマで理解できること」の限界はとうに超えている。

そのうえでさらに、魂レベルの違いも存在する。「ここにいる意味」、というやつだ。生きている意味を問い始めたら、「アタマで理解できること」をいよいよ超えてくる。そしてこれは、その人自身しか感じることができない。いくら感情を分かち合った人でも、人の人生の目的を理解することなんてできない。

こういうふうに構造で見ると、「アタマで理解できること」世界がいかに狭いのか分かってくる。人が人と共有できているつもりの世界は、実に世界のほんの一部なんだ。そして、そこに生きようとする限り、「五感の違い」「感情のゆれ」「魂の問い」は永遠に意識のフタの下に閉じ込められたままだ。でも、たしかなものを求めているうちは、意固地になってそこに生きようとする。そして、同じところを永遠にグルグルする。
これが生きづらさの正体なのではないか、と。人に共通して認められるものは、この世において、わずかだ。ほんとうにわずかだ。これは諦めなきゃいけないのかもしれない。

そして、「アタマ」にある限界を超えた人たちは、フタの下に閉じ込められた「五感の違い」「感情のゆれ」「魂の問い」へと、自分をどんどんと掘り下げていく。自分にしか分からない、孤独の世界だ。幽霊を見た見ないレベルの話になってくる。めちゃめちゃ勇気がいる。

ただ、ここで不思議なことを体験する。

「五感の違い」「感情のゆれ」「魂の問い」 は、 客観視・測定・論理的判断ができない。できない、はずだった。でも、その深みに落ちていった先には、なんと共感者があらわれるんだ。しかも、どこからともなく。
同じ土地に育ったわけでもなく、コミュニティを共にしているわけでもなく、性別も年齢も、国籍さえ違っても、謎の共感を生むことがある。

「アタマ」は、言語であり、時間を必要とする世界
「感覚や感情や魂」は、直観であり、瞬間の世界

瞬間の世界だから、わけも分からないうちに共感が進むことがある。人がこの世界のことを「軽やか」と呼ぶのは、こういうことを意味するのだろう。

いったん、いったんでいい。「アタマ」を離れることができないと、この世界に出逢うことはできない。この世界は、物理的なもので鎖をつないでいるわけではない。だから、つながれることはできないし、その必要もない。

おそらく、この「フタの下」の世界が人をつなぐようになれば、なんかしらで世界は変わるのかもしれない。生きやすいかどうかに関わらず、 「感覚や感情や魂」 だって、どの人間にもあるものなのだから。
私の感覚に分かるのはここまでなんだけど、1ミリでも伝わるものはあるだろうか。

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Photo by Vinicius Amano on Unsplash

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