不器用でもまっすぐ表現することで、心打たれる人が必ずいる。

前回記事の続きです。

前回はこちらから読んでみてください。
⇒ 文章から伝わるのは、いわゆる現世的な「情報」だけではない。

 

で、他人が描く「見えない世界」を、言葉でもって代弁し始めたときに、悩んだもうひとつのことはこちら。

2:私自身は「見えない」のに、分かったフリをして言語化しているんじゃないのか?

これは、いわゆる神様や宇宙人、オーラや霊的なものから粒子まで…が見えるか理解できるかどうか…も含まれるんだけど(そのことについては後日記事にでも)。それだけじゃなく、もっと広い意味でも、そう。

たとえば、Bさんが書いた

・私はCさんのことがケチだと思う。

という表現があったとき、ケチだと見えているのはあくまでBさんである。その理由がBさんにあるのか、Cさんにあるのか、社会全体にある場合もあるけど(笑)。いずれも含めて、あくまで「Bさんの世界」で起こっていること。Bさんから見てケチでも、Aさんから見てそうじゃなかったらAさんにとってはそれは「目に見えない世界」も同然だ。

ここで言う「目に見えない世界」というのは、「表現する本人の価値基準」を通して見た、すべての世界のことを指す。事実以外の、すべてだ。

つまり、

2:私自身は「見えない」のに、分かったフリをして言語化しているんじゃないのか?

というのは、私自身にとって「目に見えない世界」を、あたかも「アナタこんな風に感じてるんでしょ?」と分かった風に言うのに近い。そこに情熱や心はこもらない。

つい最近、お母さんの生き方を代弁して炎上した歌の歌詞があった。
その原因のひとつが、書き手にとって本質的に「目に見えるはずのない」世界を代弁形式で表現しちゃったことにあるんじゃないかな、と思っている。だってその人は一生、お母さんにはなり得ないのだから。

 

極端に言うと、目に見えない世界というのは、見ている人の空想的世界が多分に含まれる。というかほぼ空想だ。

だからあくまで、その描写は見ている本人が描く必要がある。文章でも、絵でもいい。いずれも、つたなくてもいい。それが本当かどうかうたがわしくっても、いい。細かいところも精密に、見えたまま感じたまま描く。その不器用でもまっすぐ表現する、という誠実性にココロ打たれる人は一定数いるはずだからだ。

 

そして、私は活動を通じて本当に伝えたい、と思っている主軸がこちらだった。小手先で「こういう言い方したら伝わるよ」みたいなことは二の次だったはずだ。

私自身、誰よりもコトバと自己表現が苦手な人間からのスタートだった。
学生時代は、クラスメイトにいつ「おはよう」を言うか迷った。読書感想文は書けなかった。空想画は思いつかなかった。大学受験の小論文は、数百字指定のところ、わずか4行で提出してしまった。今だって、シャバ(一般社会w)に出たらコトバにつまることは多々ある。

 

それでも、場所を見つけたらコトバは出るのだ。
技術がなくても、なにか表現したくなる相手というのは必ずいるのだ。

疑う人ばかりの中では勇気だけでなく、コトバもしぼむ。

でも、まっすぐなコトバを発せられる環境を見つけたら、そのまま伝えた方がいい。もちろん表現力も、そういう環境でこそ初めて磨かれる。

なにより大事なのは、「私はこう」という主語で伝えることだ。そのときの勇気エネルギー、その自信が先に伝わるからだ。表現方法やリクツが第一じゃない。

 

だから、やっぱりあらためて、目に見えない世界の表現で悩む人があればチカラになれるのかもしれない。と思い始めたところだ。ただ、さっき思い出したことだから、まだ何か出てくるかもしれないし、書き溜める必要がある。

きまぐれだけど、次回記事をお楽しみに。

 

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