前回記事の続きを書こうとして…それよりも、ついさっき思い出したことがあったので優先してみる。
ブログを休む前、だいたい1~3年前くらいの間、私はブログの書き方指南的な文章をよく書いていた。元々、ファッション系のサービスでブログを書き始めたところ、ブログを書くこと自体の方が楽しくなってきたから。というのが主な理由。
そしてその時まさに、目に見えない心や概念世界のことを、徐々に言葉にするようになっていった。心理学や、心を開くことで感じる主観的な世界。そもそも、はじめからファッションも、自分のメッセージや心境を伝えるツールとして使っていたところ。特にハタチそこそこの年齢の頃は、言葉を発するのが本当に苦手で、ファッションに神頼み的にチカラを借りていたくらいだ。本当に伝えたいのは、自分の感じている、目に見えない世界の方だった。それをようやくコトバにできたと感じたのが、ブログだった。
ただ、私はいわゆるスピリチュアル的に言う見えないものが「見える」人ではない。だから、ファッションなどの目に見えて伝えるツールはしばらくの間手離せなかったし、その世界のことを「分かっている」的な言及をしたことはいちどもない。ただ興味があっただけだ。
そうにも関わらず。どこからか嗅ぎ取ってくださったのか、知り合いにそもそも多かったセラピスト達や、もっと言うとスピリチュアル畑の人達から、彼らのメッセージを文章化する依頼が増え始めた。私自身が、そういうサービスをやってみたいな、と思った経緯もある。「見えない」けど、たしかにあるらしい世界への興味も大きかったからだ。
でも、そこで自分の立ち位置に悩んだ時期でもあった。
その理由は2つある。
1:人の伝えたいメッセージを、自分が代弁してもいいのか?
2:私自身は「見えない」のに、分かったフリをして言語化しているんじゃないのか?
この2つには、解説がいると思う。
で、解説ができるようになったということは少なくとも当時よりこのことについてクリアになった面が多いから、という実感があるのが、今だ。
まずは1から。
私の持っている前提として、「小説(調)など、仮想の役柄を描く文章でなければ、その文章の主語はあくまで『私』だ」ということ。
たとえば、ゴーストライターのAさんがいて、その人がBさんに文章を提供しているならどうか。その文章の主語は、あくまでAさんだということ。表向き社会的にはBさんの文章だ(ということになっている)けれども、本質的にはAさんの目線を通して描かれたものはAさんの文章なんだということ。
まあ、実用書みたいな、誰が書いてもあまり事実が変わらない文章ならそれもいいかな、と思うんだけども…。
こと、目に見えない世界となると、「主語が誰なのか」という問題を外してその文章に価値は見出しにくい、ということだ。だって主観的世界=人に目に見えるカタチで客観的に共有できないから。だから、主語そのものが価値なんだ。Bさんが見えた世界がコレだ、ということが、たとえつたない表現であっても生々しく描かれているならば、それ自体が価値だと、私は思っている。
で、さっきの代筆問題に戻る。
1:人の伝えたいメッセージを、自分が代弁してもいいのか?
自分が代弁している以上、個人的に思う主語は「私」なんだ。けど、そのサービスを提供する際は「彼ら」を「私」という主語にして書いてきた。書いて提示たものには嬉しくも、「そうそう、こういうことを伝えたかったの!」と言っていただけることも(割と多々)あった。
それですらもね、それが果たしてよかったのか悪かったのかと悩んだのだ。悩むには理由がある。文章に含まれているのはいわゆる現世的な「情報」だけではない。ペンの筆跡と同じように、「その人の人生そのもの」が宿っていると思うからだ。
息遣い、心拍、波動、人生経験から知見まで。言語外の、表現すべてがその人のものだ。それこそコトバを駆使しても伝えられるものじゃない。(もしくは、その人の存在に深く触れれば、なにかしら伝染してくるものがあり、それで代弁はある程度ならできるのと言えるかもしれない。)
でも、願わくば私は、その人自身からあふれ出るものがすべて文章を通じて伝播していってほしい。そっちの方が、その後の活動にもいい影響を与えるんじゃないかと思っている。私が影響を与える相手と、その方が影響を与える相手は確実に違っていて、そこは字面の良しあしによって決まるものじゃないからだ。
2つめについては、次の投稿にて。