暗闇の先に光が見えた話。

香澄です。

ここからまた、ブログの在り方を更新していこうと思います。基本的にはラフに書きますが、口調もちょっと更新。

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2か月ほど、なにも書けない時期が続きました。
ほんとうに、なにも浮かばない。浮かんだと思った瞬間、綿あめみたいにシュン、としぼんでしまう。日記も書けない。公開されたブログではなく、手元のノートにも、メモすら書こうと思わない。真っ暗な闇の中を歩んでる感じでした。

実は今年に入ってから、ずっと発信しやすかったわけじゃなかったのです。絞り出すように言葉にしていました。
別にその間、プライベートが闇だったわけじゃなく、むしろ普通に平和にのほほんと暮らしてました。思いついた料理を試して、いっぱい食べてよく昼寝し、ゲームして、エネルギーが貯まるとちょっとシゴトして。休憩にコーヒーとおやつ。ほぼ不自由なく、気ままに暮らしてきた数か月でした。

ただ、このように「その日暮らし」に徹したのも初めてといえば初めての経験でした。私は子供のころから、どことなく将来のことを考えて生きてましたから。子供とは言え、遊ぶことだけ考えたその日暮らしだった経験はないのです(少なくとも自分なりにはw)。その頃なりに、勉強もしくは習い事して、いずれ役立つ人にならねばと将来を憂慮して生きていました。ずっと。

で、いざその初めての「その日暮らし」という夢がかなうと、私の自我は恐いのです。この先もずっとこうなのかって。もうちょっとこう、何か、するべきことはないのか。私の生きている意味はなんなのか。私はどういう人なのか。何ができるのか。
一見のほほんとした毎日の中に、そういう疑問が頭をもたげてきたときには少しばかり重い気持ちになりました。ここにくるまでの数年間をかけて、自分の等身大を受け入れ、いろいろと俗世的なナントカは諦めてきたつもりなのに。また別の意味で諦めきれない自分がいたのです。それは以前のそれと似たようでいて、まったく別物の思いでした。

そして、その答えを寝かせ続けてきました。寝かせて、あたためて、取り出して、ながめて、また寝かせて、また見つめて、また抱きしめて、またあたためて。そういうことの繰り返し。振り返ってみれば数か月ですが、それ以前の数年ともあいまって、途方もない時間のように感じました。

ああ、そういえば、ブログを書けなくなる要因のひとつとして、「なんか明るい結論のひとつでも書けなきゃ」という引っ掛かりが私のなかにあるのです。せっかく人目に触れるように書いて、時間を取って読んでもらったのだから、読んだ人がよかった、参考になった、明るい気持ちになったと思えるに越したことはないと。

ただ、ブログを始めたそもそもの要因は、私が社交辞令がヘタなことにあったのです。時間がかかるものはかかる、と言いたい。それに、根が暗いから、表現だけ明るいように見せようとするとどうもしっくりこないのです。自分に。
極端な話「たった数か月で誰もがうまくいくナンチャラ」、というものは、相手に希望を与えるとしてもどうしても提示できない。時間がかかるものはかかる、辛抱がいるものはいるよと、そう言いたいのです。

それは、もう一つ、その「掛けた時間」の先にこそ、確かな手ごたえのある、もっと質の違う何かを手にいれられる、という確信があるからです。それは掛かった時間を吹き飛ばすほどのものである、という実感も多々あります。
だからそんなに誰しもにフィットする軽やかな情報である必要はないと、そういう手ごたえが得られた時に、私はなにかを発したいなと思うのであります。私がほんとうに発したい「明るさ」とは、そういう地点にあります。

そして、やっと一昨夜、真っ暗闇にボートで漕ぎ出したような、そのさらに向こう岸のギリギリ地点にたどり着くことができた感覚がありました。

見えないところで、この数か月間の経験がつながった感覚。これからそういったことを書いていこうと思います。

Photo by Andrei Lazarev on Unsplash

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