なぜ自分を表現するのか。

今日は少し、自分のことを書いてみる。

週末、家にひとりでいた。
旦那くんが定期的に実家で過ごす日をとってるので、その時は自分の自由時間だ。時々私もついていくし、今回みたいに別々に過ごすこともある。

自由なときって、自分の感情が掴みやすくなるチャンスだ。静かで、音楽とかYouTubeでもつけてないと、自分との対話しかなくなるからだ。

今回は、自由であるがゆえの、ちょっとした“おびえ”みたいなものが出てきた。

基本的に私は、ひとりでいることが好きだし、人にほっといてほしいと思うことも多い。
けどね、それってある側面、束縛があるからこその自由の謳歌でもあるわけだ。何かに属している、繋がれているというのは苦しくもあれば安心感を生み出すこともある。たとえそれが、自分にとって本当の本当は望まないつながりだったとしても。それって本質的には自由じゃないよね?

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私はここ十年来、ちょっとずつ自由の拡大をする実験をしていて。最終的には一日、ほんとに何もしていないのと同じ感覚で生きてたいと思っている。責務と感じることが何もないに等しい感覚で。「何もない」、と自分が思っていれば何をしてもしなくてもいいわけで、それが人から見て「責務を果たしている」ように見えてもそれをやりたければやったらいいという状態。

でも、自由がちょっと増えるごとに、ときどき、ちょっとした“おびえ”がやってくる。なにか「責務」を果たさなきゃ!と、ある意味では「責務を果たしているという感覚」に逃げこまなきゃ!という感じ。自由が増えると、一時期そういう不安でいっぱいになる。
でも、そのおびえていた状態が定着すると、また安心に変わる。そういうことを繰り返して、ちょっとずつ、“おびえ”を乗り越えているんだな、とは思う。自由でいることを、一瞬いっしゅんを丁寧に、味わえるようになってくる。

そういう心のメカニズムをのぞくと、やっぱり自分に根深くあるのは「私は私でいてはいけない」というものだ。自分単体ではなく、おそらくは親族とか、ある一定の人に共通する集合意識的な何か、だとは思う。

そのストーリーとは。
自分でいることにくつろいでいたり夢中になっていると、検査官みたいな架空の人物がやってきて、「責務を果たせ!」とそっこうムチでしばかれたり、連行されたりするくらいの感覚。これはあくまで「感覚」であって幻想。なんだけれども、私の心の中にいる子どもは、真っ中心では、そういうストーリーを描くくらいおびえていた。
子どもの頃に隣のオッサンに怒られたりした些細なことがそういう「感覚」として残っているのかもしれないw けど、過去の記憶も散々掘ったので、もうどれがどの時のそれかは分からないw

でもひとつ分かるのは、実際に自由にしてみて、そういう感覚を「幻想だったね」と言って解放してくしかないってことだ。
私が自分を表現するのは、そういうプロセスのひとつだと思っている。何も表現しなければ、最初から“おびえ”も幻想も感じる必要はない。でもそれは身体や心に一生、残ったままだ。その“おびえ”を感じない範囲でしか動けないし、これから先も生きていくしかない。
だから、それを感じることができるのはチャンスだと思っている。またひとつ自由が拡大したから、ちょっとそれが恐いのだ。

私にとって自由とは、世界中を回ったり年中バカンスということに限らない。それはそれでできたら素敵だけども、もし今それができても、やったからといってその“おびえ”は解消できないだろうし、根源的な自由を感じるわけではないだろう。自由とは、目に見えるカタチではない。

ただなんでもない日常の中で、「私として」そこにくつろぎ、ただ存在すること。これの繰り返しで、ただ存在することに心から安心できる状態がいい。

これはもう、誰かに許可もらったからできるとかじゃなくて、自分に身体で覚えてもらうしかない。誰かに認めてもらったから解消できるわけでも、ない。
自分でいることをほかならぬ自分が、心から安心できること。そうやっていつの間にか、気づいたら脱皮できていたら嬉しいな。これまでもそうしてきたように。

Photo by Radu Florin on Unsplash

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