自分を全開にしない、という自己表現。

2年ほど前まで、アメブロでブログを書いていた。2010年から6年間くらい、ブログを作り直しながらも書き続けていたんだけど…。ある時から違和感が出始めて、スムーズに書けなくなっていた。その時期から、このブログに移動してきたというわけだ。

先日、そのブログを読み返していて、当時いだいていた違和感が分かった。

ブログを始めた当初から、ブログの大きなテーマのひとつに【自己表現】というものがあった。私が幼少期から抱いてきたコンプレックスのひとつだった。人と何を話していいか分からない。すぐ黙ってしまう。自分のカラに閉じこもる。友達といるのもときに、面倒くさい。
それを克服してコミュニケーションなり人間関係がスムーズになりたかった。それに、性格がカラッとしていて開けっぴろげな人間に憧れていたフシもあって、そういう人間として、しかもラクに、常時生きていられるならそれは理想の人生だとかねてから思っていた。

自分らしさは、言葉なり態度で表に表してこそ意味があると、信じていた。おそらくそれは、自分以外の何か外部からの影響だ。

 

そして、10年以上経ち、あるところまでは変化できた。

初対面の人にサクっと声をかけ、ちょっとした話題で盛り上がり、でも粘着質になることなく、風通しのよい人間関係を作るスキル。ある程度は身についた。そしてよほどタイプの違う人間に囲まれてない限りは、その能力を、ある程度いつでも引き出せるようになった。と思っていた。ブログに書いてきたのはそのプロセスの集大成でもあった。

しかしまあ、これがエネルギーを消耗する。しかも見えないところで。そのような人間になろうと思ったら、ある時点で「カチ」っと人格にスイッチを入れないといけない。つまり、持続可能でない。

実際、数か月に一度、数日起き上がれないほどの疲労が溜まることもあった。じわじわ、無自覚だから気づけなかっただけなのだ。

 

…で、数年間この自分で生きてきてようやっと、分かった。

「これは【本当の】自己表現ではないんだ」

ということ。

 

いや、ある意味では、心に秘めて、言いたくても言えなかったことを表に出せたことや、自分のキャラを伝えられたから、自己表現と言えなくもない。でも、自然にしていてそれが出せないなら、それこそがまぎれもなく自分自身なんだ。
「出せないなら、出さない」という自己表現。それを受け入れることができたし、もうそうするしかなくなっていた。全力で自分を表に出そうとした結果がどうなるか体感したら、もうそれにエネルギーを注げなくなっていたから。

 

そして一転、「本来そうであった自分」で生きていく日々になってきた。
ある程度、自然に湧いてきたときでなければ、社交辞令もなるべく言わない(もちろんある程度の空気は察知するが、本当にムリはしない)。暗いとか偏屈だと思われそうな気がしても、とりあえず放置。言いたくないことは腹に秘める。なじめない間は、人に接近しない。なにもできないときは、ただ状況を観察している。幼少期から私の中では当たり前のことだったが、それはすべて「社会がゆるさない」とどこかで思ってきたことだ。

でも、それでよかった。何より格段にラクになり、エネルギーを徐々にだけど蓄積できるようになってきた。

それ以上に、どんな人でも放置していればある程度、自然になじめる時期がくることを、体感で思い知った。ムリに心を開かなくとも、ちょいちょい接しているうちに多少の親しみが湧く。相手のことを少しは知る。そして人によっては、自然に興味が湧いてくることもある(ここもムリに興味を持とうとはしないw)。そのときにアクションを起こしても遅くはない。

ここで、コミュニケーション能力を磨いてきたときの体感が生きてくる。いざ自然にテンションが上がったときに、たとえテクニックであれ、人とスムーズに話せる自分になっていたことは大きい。

 

私はいつの間にか、

四六時中自分を表現して、人に伝えて、それがある程度は伝わって、隠し事もなるべくなく、オープンな勇気ある人間。

それが「あるべき姿だ」とどこかで思うまでになっていたことだ。冒頭に戻るけどw、以前のブログを書いてきたときの違和感がここだ。でも実際は、隠し事をしていてもいい。黙っていてもいい。人はそんなに自分に興味はないし、ましてや本心でいることも意外と求められてはいない。裏表と分かっていて、それが必要とされることも多々ある。

で、求められたときにだけ、必要とされる本心からの自己表現ができればいい。その腹くくりさえあれば、意外とそれすら求められはしない。だってそもそも隠そうとし過ぎてないから。

そのことが体感を通して腑に落ちて以来、裏表とかどうでもよくなった。いつもオープンでなければと思わないし、逆に隠さなければヤバイと思うこともほとんどない。大抵の場合、ホントにそれが必要とされる場面はない。

それよりも皆、聞いてもらいたがっている。自分をいかに人に伝えるかに腐心している。すきあらば自分を見せたいとすら思っているように見える。むしろ勇気あるなと思うくらいwww もちろんそれも、なんらかで都合のいい部分であることが多いんだろうけど。

それが見えるようになってから、自己表現をしてもしないでもいられる自分の存在価値が少し、見えてきた。つまり、過去書いてきた【自己表現】をうたうブログの存在意義がようやく昇華されたって感じだ。

このブログも自己表現だけど、書かなきゃやってらんないことはなにもない。でも、なんらかで人に伝えることで、別の価値を生むかもしれないとようやく思えたから書けている。書くモチベーションが完全に変わった。

*****

 

ここまで時間がかかったし、何周も回って結局同じ地点に戻ってきたように周りからは見えるくらい、見た目はなにも変わっていない。

でもなにより確かなのは、なにも焦ることなく生きていられる自分。今ある自分にくつろいでいられる自分。そして何より、人に変化を強要しないでいられる自分。←実はこれがいちばん楽かもしんない。

 

◆続き
⇒ 深く価値観を分かち合える人と出逢うには。

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