闇をやり切ると光が見えた。

今日は、光と闇についての話。

5年前に発信を始めた頃の時期から、ずっとずっと見ないようにしてきた闇の部分を見させられる出来事が続いてました。

「闇」とはなんなのか、というと、社会的に都合の悪いところ。人には隠しておきたいところ。弱点、できない、ダサイところ。カッコつけて生き続けることはできないってこと。プラス思考だけじゃ片手落ちだし。

弱点を直視して、初めてできることってありますよね。正直に生きるには必要なプロセスだったと思います。

でもそれも、終わりがあるんじゃないかと。このブログを始めたのも、自分的に「闇」観察期が終わったからです。

もう一度私は、自分や他人の、光の部分を見たくなった気がします。それに、闇ばかり見つめているとそこに安住してしまって、その先の景色が見られないな、と思ったんです。

自分自身の役割と思えるものを先日、あらためて確認する出来事がありました。

facebookに投稿したものを、後で引用しますね。

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このところ、自分の原点をあらためて解釈し直す時期にきている。何周も回って、ちょっと違う視界にたどり着いたような。昨夜も深夜までいろいろ考えごとしてて、ひとつの着地点にたどり着いた。
私は、悪役がデキる人=ワルに憧れる傾向があった。子供のころから。
だからといって自分は別に善人でもなんでもなく、悪口も言うし自分中心なんだけど。
たとえば、学校の掃除の時間に「掃除しようよー」と言ってはワル役の人に軽く反感を買い、それでもやってくれなければ一人でやる、みたいな。
そういう姿勢しかできない自分、正義ぶって白々しいな私、カッコワリーのかなと思ったのがワルに憧れる理由。
その逆を姿勢で見せてくれたのが弟で、地域一番の高校に受かったのに、そっからは完全ヒール役。緑色のモヒカンヘアにして、家ではブチ切れ、学校行ってないと思いきや、写真部(幽霊部員)の部室にたむろしてたりしたらしい。

それでもいつも友達に囲まれ、慕われていた。今も、とある社長に見込まれて入った会社で右腕として10数年働き続けている。
正直に反抗してる姿がすごい、そっちのがいいんじゃね?と思いつつも、私はそっちじゃないしマネなんてできないんだよね。表に見える表現が違うだけ。
ワル的な役割の人には、そんなわけで今なお憧れる。でも私は私なのだ。
たとえば、嫌いな人にも、自分にとって不利益な人にも、その奥に光というか善意的なコアを見ることができる。ふだんはスイッチ切ってるけど、必ず見えるという確信みたいなもんがあり、実際に必要とされてきた。

人によっては、くそ真面目で白々しく見えるかもしんないけど、私はまっすぐしか進めない自分をただ生きるしかないんだな、と再確認したのが今。

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自分の中の光を見続けることって、甘いことでも、生やさしいことでもない。
光とは、まだ顕れてないけどたしかに内側に存在している、可能性のこと。

人に褒められていっときは有頂天になっても、一人でいると「そんなに私大したことないし…」てのが襲ってきたりする。
闇もあるし、腐りもする。それでも、光を見続けることを選べるかどうか。これは自分にかかっている。

やり続けるといつしか、その光である自分が当たり前になるときがくる。そこまでの期間信じらんないから、厳しく思えるんだな。

「私には所詮そこまでの光はなかった」なんていつでも思える。そう思ってこれからも過ごしたいなら、それでいいんじゃないかな。

でも本当はどうなんだろう。本当は光を顕したいなら、何度ヘタってもまた向きを変えて歩みだすだけだ。

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右に行くのか、左に行くのか、迷うことって多々あると思います。どちらに行っても先がまったく見えないとき。

そういうときは私は、一度どちらかに思いっきり偏ってみることにしています。偏って偏って、実際にやり切る。そうするとそこにフィットする自分としない自分が出てきて、自分の輪郭みたいなものがうっすら出てくる。それまで着ていた服が、窮屈になってくるような感覚。

そしたらまたそん時に、道を選び直せばいいんですよね。

これからは焦らず腐らず、自分の可能性、見ていきます。多分、以前のただのプラス思考とは全然違う景色だろうから。

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