“現実味”のないせかいの、言葉。

今月に入ってからの記事は、今までにも増して現実味がうすれてるんじゃないか。

と、自分では思っている。現実味ってなんだ、その、いわゆるセケンに通じるかどうか、とかそういうやつだ。

もうそういう話しかできない。そういう話にしか熱を帯びさせることができないから。
今まで何度そう諦めただろうか。また最近、もう一段諦めざるを得ない心境になった。諦めると、自分自身はラクだ。ハラがくくれればこうやって毎日ネタが出てくるようになった。でもどこかしら、セケンとのへその緒が切れてフワフワと手の届かない宙へ、飛んでいきそうな恐怖がせりあがってくる。心の奥から、静かに。

そういう諦めを持ちつつも、リンクを開いてくれる人にはせめて少しでも通じる言葉をつづりたいといつも思っている。この言葉を目で追ってくれている人は、私にとって最後のライフラインかのようにも感じる。いや、だからといってしがみついたりはしませんから安心して。私もしがみつかれるのがいちばんキライだし。

話は変わるが、つい先日も、子持ちのお母さんに会ったとき「お子さんはお元気ですか」とのセケン話を切り出して思った。

(…やってしまった)

そのあとの言葉が続かない。「元気ですよ」「ああ、それはよかったです」これが精一杯の続き、だったw ハタから見たら別になんの問題もない会話かもしんないが、私の中では凍り付いていた。自分自身が子育てに興味がないから、そのお子さんのことも知っていないと、その話題ボックスは空に近い。テレビやスポーツ、芸能人の話とかもそれに近い。今朝たまたま見たニュースだからと話題をふってしまったら、うっかり掘り下がってしまってついていけない。

 

…で、なんの話だっけ。

そうそう、私は「現実味」のない話題がやはり好き。目に見えないこととか、心の内側にあることとか、主観と客観の違いとか。そういうのをていねいに掘り下げていく。
セケンでは、そういうジャンルの話すら共通の名前をつけて共有・伝達しやすくどんどんと記号化していく。そして、セケン話的に伝わっては消費されていく。それはそれで機能として必要だからそれでいい。

でも私は、そういう流れにおきざりにされてもいいから、ひとつひとつを味わっていたい。かみしめて、自分の身体と心で体験して、はじめて生まれる言葉が好き。そこから始まる言葉を、もしできうるならば誰かひとりとでも共有できたり、感覚の違いを語り合うことができたり、「この人もひょっとしたら近い体感をしたんじゃないか」とさぐりさぐりに語り合うことができたなら、楽しいと思う。100万回のセケン話もそれはそれで素敵な交流だと、最近は思えるほど大人になったが。それでも生まれたての言葉による1回の交流にはかなわない。

ちなみにうちの旦那くんは、私のこういう言葉を解読するのにもかなり長けている。が、同時にニュースに出てくるセケン話もいとわない。そういう人もいるんだな。

 

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