幼いころ、人が多く集まる場所が苦手なことがあった。場所にもよるのだけれど。
周りの人のアクションが大きくて、声がやかましくて、自分の存在が消えてしまいそうになったから。自分はここにいてもいなくても、世の中からしたらどうでもいいことなんじゃないだろうか。そういう感覚がおそいかかってくるのがどうしようもなく恐くて、いっそのこと、はじめからひとりになりたかった。
「自分に価値がないんじゃないか」と思うこわさ。
子供時代は言葉にできず、意識にものぼらないこと。
だけど、それは大人になっても、無意識にコワイことなんだと今なら分かる。誰にも気づいてもらえないと、命を失うかもしれないからだ。
だから大きな声で自分をアピールしたり、役に立つ自分を演出したり、プロフィールに価値を乗せる。極端に目立つ格好をする、極端に目立たない格好をする。見た目の行動はちがえど、根本にある恐さは似たようなものかもしれない。
だけど、この「こわさ」の存在に気づかないまま行動を重ねていくと、どんどん自分の望む方向からかけ離れていくんじゃないだろうか。
わたしの場合は、冒頭に書いたように集団のなかにポツンと入ること、型にはまること。これが「こわさ」の根源だった。自分の価値が消え、自分そのものが消えてしまいそう。この「こわさ」をもとに行動を積み重ねていった先には、安心はなかった。
自分の価値のたしかさを欲するあまり、逆に集団や型を求めてしまうこともあった。でもそれはもともと「こわさ」の根源だったから、やっぱり離れてしまう。これを繰り返す。
「自分に価値がないんじゃないか」と思う「こわさ」
⇒これを払しょくしようとしないこと。
これをチビチビ積み重ねていくこと。これが私の答えだった。
「●●しない」という行動指針だから、一見よくわからないかもしれない。けど、自分の感情をよくよく観察していると、
「自分に価値がないんじゃないか」と思う「こわさ」
から逃れたくて行動をしていることって、実に多かった。
人の認める資格を取ってみるとか、
人より先に情報ツウになろうとしてみるとか、
集団の中で認められるポジションを取りたがったりとか、
その集団の人があつまる飲み会にあれこれ参加したりとか、
その行動がいいとか悪いとかいうよりも、それで逃れたような気がする「ちょっとしたこわさ」、それで得た「ちょっとした安心」が、もっとこわい。これによって、「自分に価値がないんじゃないか」というこわさがエスカレートしてしまうから。
じゃなくって、
「自分に価値がないんじゃないか」と思う「こわさ」
⇒これを払しょくしようとしないこと。
「価値がないんじゃないか」。そういう発想なりこわさが出てきたら、それをじっとただ観察すること。動こうとする自分をじっとこらえて、淡々と見続けること。なにもしなくていい。飲まれそうになってもいい。心の中で湧き起こっているそれは、現実に起こっていることじゃないから。
これを繰り返すことで、不思議なことに、自分の価値が自覚できるようになっていく。証明が必要なくなってくる。いつの間にか、後づけのように現実は変わっていく。自分の中に、たしかな居場所ができる。
私の場合は、価値が欲しくて求めていた「集団」や「型」というものが、ほんとうのほんとうに必要なくなった。逆に「集団」や「型」に飲まれて自分が消えてしまいそう。という感覚もごくごく少なくなった。そこにいようがいまいが、自分の内側に、完全オーダーメイドの快適な場所がある。そこにいて、淡々と自分の身体を、動きを積み重ねていると、いつの間にか自分というものも出来上がっていく気がする。
何をやるかは、その先にいくらでも考えたらいいんだ。