ヒエラルキーからの「自由」

私の人生のテーマに、確実にあるだろうなって思うのが、「ヒエラルキーからの自由」ってやつ。

人間生きていると、比べるなって言っても比べたくなる事項が山のようにある。
早く生まれたからエライ。にはじまって…
先にやりはじめたからすごい。
長くそこにいるからエライ。
その陣地とってるからエライ。
たくさんの経験があるからただしい。
美人は価値がたかい。
スタイルいいのが優秀。
多く所有しているから…云々。
自分が下なら地団駄踏むけど、
上に行けそうなら意地でもつかもうとする。

それをあえて言わないまでも、暗黙の前提としてそれはずっとずっと人に染みついていると思うの。私自身だって、それに囚われている前提で話をするしね。たとえば敬語使うかどうかひとつとってもそう。

でも心の奥では「エライスゴイ」の理由の意味が実は分かんない。
それらを得てないから「エラクナイスゴクナイ」の意味も腑に落ちてない。

ただそういう不文律がこの地球にはあるらしい、ヒエラルキーというものははいったん上に行かなけりゃいけないらしい、という感じで探り探り生きてきた気がする。そんなわけなんで、上に行きたい根源的欲求はひとつもない。

だからなのか。
何をやるときにも、やったことなくてスタートするときが実はいちばんやる気満々だし、スタートダッシュだけは誰よりも早くて情熱的だった気がするのだ(それを過ぎるとソッコー冷めるのはどうかと思うがw)。

もしかすると、「いちどもやったことなくても丸腰でも、今持ってるもんだけぶん回して堂々とやってやりゃいいじゃん」というような事を、伝えたくてたまらない何かが「私の中にいる人」かもしれない。だから、ヒエラルキーからの「自由」。「脱出」とかですらない。そんなもん、あたかも最初からなかったかのように振る舞えたら何より面白いと、心のどこかで思っているフシがあるな。

 

 

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