心の奥底にある扉を発掘するには。

今回の話は、この記事の続きっぽいところがある。
 ⇒自分の話をいちばん分かってくれる人は誰だろうって話。

読んでから戻ってきてね。

さて、自分の心との対話で、「いちばん気軽にしゃべっているようで、いちばん聞き入れにくい話」とはなにか。

それが「言い訳」じゃないかと、私は思っていて。

言い訳って、無条件にダメだとされている。言い出したら即座にまわりに止められたって経験、誰しもあるんじゃないかな。けど、いったん出だしたらとめどなくあふれ出てくる。ダッテ、キツイ。ヤダ。ニゲタイ。アイツキライ。モウダメーーー。

でもさ、冷静に考えてみると、努力せずともとめどなくあふれ出てくるものってすごくない??まあ、努力したくないからあふれ出てくるんだけどさw そういう矛盾は今はおいといて。
でも、あらためて思う。言い訳って、どんだけコスパのいい創造法なんだろうとw 言い訳で本が出版できるなら、誰でも今日から著者になれるに違いない。

イヤダイヤダいう割には、よくもまあ言い訳するエネルギーは残ってるもんだ。って思うことあるよね。私も多分に漏れず、そういうイヤミを言われた。数限りなく。
で、人に言われまくって「ホントは分かってるのに…」と思っているからこそ、独り言で言い訳が出てきたときも、ついつい止めようとしてしまうんだ。「こんなこと言ってても仕方ない。明日も早いから寝よ」って。

で、実はこういう言い訳こそ、自分自身がちゃんと聴いてあげるべき話だと思うんだ。その奥の奥に、「何だったらやる気になるのか」のタネが眠っていることが多いと思うから。

「ダッテ、ハヤクオキレナインダモン」
⇒じゃあ、何時起きだったら快適なのか?
「ダッテ、アタマワルインダモン」
⇒じゃあ、感性を使うことなら楽しくできそう?」
「ダッテ、ソンナスピードダシタラ、オナカガイタクナッチャウヨ」
⇒じゃあ、どれくらいのスピードならいい?

さすがに、こういう風に一問一答で答えは出ない。しかも、普段言い訳をやめようとしている人ほど、時間はかかる。言い訳がたまっていることもあるだろうから。
試しにひたすら、言い訳を紙に書きだしてみよう。きっと腱鞘炎になるだろうw 私はそれに近かった。
出尽くしても、また出るだろう。そしたら、毎日紙に書きだそう。破いてすててしまってもいいから。

幼い頃、ほんとに純粋に「こうしよう」と思ったことがあって。それをなにかしらで咎められて。出てきた言い訳も止められとしたら。

そのときの「こうしよう」の世界の入り口はそれで永遠にふさがれてしまうこともある。どんどんと扉の前は、お咎めで埋め尽くされ、ガレキに埋もれて、 見つけてもらえなくて寂しがっているかもしれない。
それでも、自分は、自分として生きているからには、その扉を意地でも発掘するしかない。その先になにがあるかを見つけられるのは自分だけなんだ。
その作業のひとつが、「言い訳をきく」ということ。そう思えば、つらそうに見える作業も愛おしいものに思えてこないだろうか。

Photo by Filip Kominik on Unsplash

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