「自由になりたい」という理想は、もういらないのかもしれない。

今日、ふと思った。

「自由になりたい」という言葉はもう違うな、ということ。

気がつけば、自分で望まずに何かを強いられていると思うことが、限りなくないに等しくなった。実際に多少の時間拘束なり、お付き合い的ななにかは、あるにはある。ただ、二つ返事で受けたり、言われるがままに従ったりということは全くなく。一旦自分の中で咀嚼して、「うん、これはやったほうが全体的に快い感じだな」となったらはじめて動く。逆に、これは違うとなったらテコでも動かない。もしそれで誰かが「不都合だ」と言ってきたとしたら、たとえば理由を説明したり、ごめんなさいと謝ったりと、なにかと対処をとろうと思ってはいるのだが、今のところほぼそういう必要がない。

そういう姿勢を取りつつまわりを観察していると、「不自由を先取りしている」ケースって案外多いんじゃないかと思っている。
どういうことかというと…。

たとえば、自分は「これをやったら不自由だと感じるなぁ」と思ったとする。でもここで、想像ワールドが始まる。でもきっとそう言うと、Aさんがいい顔しないだろうな、とかBさんが可哀そうかも、とか、私の評価が下がるな、とかいろいろな心配事ストーリーが出てくる。それこそ、洪水のように怒涛の勢いで湧いてきたりする。場合によっては、こうやっていちいち言語化しているヒマもないくらい、ドドドドドドドドとそれは猛突進してくる(かのように思える)。
そして、思わず言ってしまうのだ。「それ、私やります」「それ、遠慮しときます」。誰にもなにも頼まれないうちから。何も起こっていないうちから。
カンタンにいうと、これが「不自由を先取りしている」状態。自分のアタマの中にだけあるストーリーが自分を縛るのだ。

で、これに気づき始めてから、ひとつひとつ、この先取りを辞めてみた。辞めただけで、代わりとなる行動はほぼとっていない。しいて言うならば、さきほど書いた「ドドドドドドドドド」と猛突進してくるストーリーをしっかり見つめた、ということくらいか。

「ドドドドドドドドド」に負けてはいけない。それはあくまで、その人自身がかつて体験したなにかにもとづいたストーリーだから。そして、私たちが不自由なのは、環境や家族や友人や恋人から、ではない。誰かが強制したのではなく、その言われるがままに動きだしたのは私たち自身なんだ。そして、かつて自分自身が体験したなんらかのストーリーから、不自由なだけだ。

ここで、「ドドドドドドドドド」に惑わされず、冷静に選び直すことさえできれば、不思議なくらい「自分で自由を勝ち取った」というたしかな手ごたえが得られる。フランス革命かよwというくらい、大げさなんだけど、その静かなプロセスにじんわりと熱い「自由」という体感が得られるのだ。これが、かつての体験ストーリーを静かに塗りかえてくれる。その結果かもしれない、「自由になりたい」という言葉が自分の中で古いものに感じられたのは。

「自由」という代わりに、私の目の前に常にある選択肢。
それは、「じゃあ何をする?」ということ。毎日、毎瞬、じゃあ何をするのかと問われながら毎日を送っている感じだ。それは脅迫でも強制でもなくて、ただ問われている感じ。そして、丁寧に心を探りながら答えていく感じ。その結果が、あくまで結果が、人から見て「自由」かもしれない、くらいのことだ。

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Photo by Chris Sabor on Unsplash

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