思うように身体が動かないとき。

アレもコレもやりたいのに、思うように身体が動かない。

ってことが、この4~5年くらいでどんどん増えた。一見、アカンことのように思える。いろいろと予定は立てているし、心の中では「やるつもり」でいるのに、身体は寝転がったままだ。
子供時代に、宿題ほったらかして遊んでいたら母親に「宿題やったの?怒」と言われ、「今やろうと思ってたのに…」というアレだ。たぶん体験のある人がほとんどだろう。分かってることを指摘されるのはひっじょーに腹が立つ。

やらなアカンことは分かっているのだが、どうにも動けない。こういう時期がきたら、いよいよ自分にウソがつけなくなっていると思ったらいい。ご飯つくらなアカンのに、動けない。買い物行かなきゃいけないのに、動けない。仕事の締め切りが迫っているのに、エンジンがかからない。ラインの返事を追いたてられているような気がする。

私はこういう時、動けるまで待つ。とにかく待つ。自分で自分を待つ。

待つことで、本当は何がしたかったのが、フッと浮かび上がってくる。動かなきゃ動かなきゃと思っていたものが、大層なことではなく感じたりする。もしくは、別の楽しい抜け道があるじゃん!って見えてきたりする。そういう変化が、いつの間にか起こるまで待つ。

待てるような家族環境や仕事環境、人間関係なんじゃないの。ならいいやん、って思うかもしれないが、私自身これまでずっと、そういう環境をつくってきた。環境を選ぶのは自由。その代わり失っているものもあるのかもしれないが、自分を待てる環境というのは、子供時代からおっとり・ぼんやりしていた私にとっては、自分を待てる時間の方が、失ったなにかよりもよほど大事なものだった。

最近、とある学生さんが、旅行のスケジュールで友達に振り回された、という感じの話をしていた。間にはさまれてもう一人振り回されている様子だった。相談された大人が、「そこまで勝手なら私は友達じゃないと思う」と言っていた。基本的には、選ぶとはそういうことの集大成だ。自分にとって大事なものを選んでそりが合わないのなら、怒るか怒られてみるしかない。それが耐え難かったら、じわじわと離れてみるしかない。
環境を選ぶ。そうすることで、自分の時間が確保できる。

 

*****

 

で、なんの話だっけ。そうそう。とにかく動けないときは自分を待つ。
これは本当にそうしたいと思った人だけやればいい。事情があるから待てないのなら、待ちたくなるまで今のままでいいんじゃないかな。
根気はいったが、私の場合はそれしかなかっただけ。やった先はモチベーションなどのいらない、軽やかな世界が待っていた。

自分を責めたりしてても時間のムダだし、なにより不快だろうと思う。自分を責めることで、動け働けの文脈に自分から乗っているわけで。そうし続けているから、周りに責める人も出てきてしまうわけで。

「自然に動きだすまで待つ」ことで、神聖なる自分の領域を、いちどは徹底して守ってみてほしい。そうそう。自分のペースでいることは神聖な時間・場という領域を自分でつくることだ。これは決して大げさなことではないと思っている。
そして、時間をかけて自分のペース守り通すことに慣れてきたら、自然に変化はおとずれる。「自分、変わりたいんです」「人生、変えたいんです」という必要はない。気がついたら変わっていることが多数ある。

自分を待てるということは、人も比較的待てるし、トラブルがあっても待つのが普通になる。相手に悪気があったら別だけどw ふつうは心に波が立たないし、動きだしたらただ乗るだけだ。待つことに摩擦がなくなったら、けっこう時間が余っていることにも気づく。

 

◆関連記事
⇒ 動きが止まることを恐れないこと。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ クリエイティブライフへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です