起こるときに起こる。

前回の記事の翌日、さっそくウォーキングに行った。雨予報だったけど、少し歩いたらすぐ止んだ。人生なんて決意すればそういうものだ。

近くの河川敷を無心で、往復2キロほど。図書館への道のりに比べたらだいぶ短い。スマホも持たずにでかけた。スマホから解放されるのはこういう時くらいだ。

部屋着の上着の上にダウンを着ていったら、当たり前だが暑かった。でもここ最近、シンプルに「運動で暑い」という状態をめったに味わってなかったことも思い出した。
エネルギーを出すと、エネルギーが次から次へと湧いてくる。これって、若い時分だけじゃなくて誰しもそうだったのだな、と分かり切っていることを思い出した感じがした。

ウォーキングに行ったら、1日気分よく過ごせた。こういう時人は、早くやればよかったと思うものだが、今だからこそよかったのかもしれない。

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思えば、私は長らく「やる気」というものを粗末に扱っていたのだなぁと思った。
かつての私のとって、やる気とは焚きつけるものだった。感動する話を聞いたり、自分を追い込んだり、カリキュラムの組まれた環境に置いたり、シゴトを詰め込んだりして、やる気のないときでもどうにかこうにか沸かすものがやる気だった。そして、それこそ「若い時分」にならどうにでもなった。

私の心は、何度も燃え尽きたことがあったんだ。「心」というものは目に見えないから無限、だと思い込んでいた。なんど折れても燃え尽きても、また焚きつければいいと思っていた。もちろん、そういう考え方を採用していた根本には、そうした方が得するみたいな下心があったのも確かだ。

でも、「心」は「肉体」と「魂」の中間にあって、「肉体」が動かなくなればそのエネルギーの発露する場はない。「肉体」には限界があるんだ。そして、「心」は2つを取り持つ扉でもある。「魂」に沿ってないものに対して、その扉は開かないようになっている。だから、ムリをしているとそのうち枯渇する。いずれにしても、焚きつけることには限界があったのだ。

そして、ひょっとすると焚きつけることで何か得したのかもしれないが、得と思ったこと以上に損と思ったことも起こってきた。今となっては、それらすべてのおかげで理解することもあるから結果的に損も得もないが、その時は失望した。もしかすると、やる気の前借りをし過ぎた結果かもしれない。

今回、雨予報にも関わらず、しかも引きこもりたいような花粉シーズンにも拘わらず、苦手な運動に乗り出そうとしたのは、焚きつけたやる気からではない。自然と湧いてきたなにかだ。これまで身体と対話してきたり、心を自由にさせて、「起こるときに起こる」を重要視してきたから、結果的に起こったまでのことだ。それに、そのために私が何かしたことはほぼなく、ほとんどは周りの理解や協力あってのものだ。

今でも、ふとした時に昔のクセで何らかの前借りをしそうな心境になる。心配の前借り、やる気の前借り、課題の前借り、結果の前借り…。それでも、そういうときに「ああ、また私焚きつけてんな」と気づき、早い段階で起こるにまかせられるようになったのは幸せなことかもしんない。

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