そろそろ「人間ってそういうものだよね」思想の外に出たい。

私がブログを書かなかった(書けなかった)間に感じてたこと。あえてコトバにするならば、

◆そろそろ「人間ってそういうものだよね」思想の外に出たい

ということだったと最近気づいた。

 

たとえば、買い物なんかが分かりやすい。
近所に、自分が愛用しているスーパーがあるとして。ひとつは今日限りの特売日のAというスーパー。もうひとつ特売はめったにしないけど常時クオリティの高いものを置いているBというスーパー。

今日はどちらに買い物に行くだろうか。どうせどちらも愛用しているなら、

・Bというスーパーは明日でも行けるから、今日はAにしとく

という選択が多いんじゃないだろうか。最近は特売に惑わされない購買スタイルの人も増えているとは、思う。

それでも、大多数の人間は「今お得だし」という風に流れる。えてしてBを選ぶには、先を見通す価値観と、ちょっとした心の余裕が必要だ。「やっぱ特売には弱いよね」⇒「人間ってそういうものだよね」これを前提に今の社会すべてが回っていると私は感じていて。スーパーを例にしたけど、他の業界も大方、そう。

それが売る側にとっても得策なら、まだいい。でも長期的に見ると、競争に流されたり、過労のため疲弊しまうのは目に見えている。つまり、誰も幸せになんないじゃん…。

という感じのことを、実は成人して社会に出るずっと前からうすうす感じてたって人はいるんじゃないだろうか。先にコレを見通してしまうと、どうしても生きること全般に冷めた目で見てしまったり、その逆に「これしか生きる道はないのだから」と、無理して合わせてしまったり。と、どこかに無理が生じる。これが私だった。

この

「人間ってそういうものだよね」

にはほかにもいろんなバージョンがあって

・人間って、枠に当てはめると安心するよね
・人間って、どうしても楽に流れるよね
・人間って、どうしてもすぐに結果を求めたがるよね
・人間って、権力者が自分側にいると鬼の首を取ったようになるよね
・人間って、好き嫌いでしか判断できないよね

…などなど…。でも最初からコレを言ってしまうから、同じ生活のサイクルを抜け出れない。人を指導したり何かを伝達する側に立ったところで、指導する側が相手をそういう「どうせAのスーパーに行くんでしょ」的な目で見ちゃったら何も進まない。私も、ブログなどでこのワナにがっつりハマっていた人間。そう、しょせん人間な発想だった。

そこから出たところで、いきなり現世的な得はしないから。まわりも誰も出てないように見える。⇒余計に出れない。

 

***

 

でも、このサイクルの限界に気づいた。結婚してから2年弱は、よりこんなふうな自動思考を、Aスーパーを選び続けるような自分を、丁寧に選択し直してみた。

冒頭で

◆そろそろ「人間ってそういうものだよね」思想の外に出たい

ということを書いたのだけど、自分の実感として半分出ることができた気がする。そしてこう感じた。

・身体や心がとっても楽だ
・問題が激減した(自分の外にはあるが、ミュート状態になった感じ)
・時間がゆっくり過ぎるようになった
・豊かさを心から味わえるようになった

「人間ってそういうものだよね」という枠の外にしか、求めているものがないことを知った。これは目に見えることじゃなく主観的なことが大きいんだけど、確実に外に出たのは分かる。

けっこう長くなってきたので、これについて詳しくは、また後の記事に書いていきたいと思う。

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