その発信、ソフトに見捨てられている。

 

いいたいこともない
つたえたいこともない
やみもない
ひかりもない
ましていたみもない


 (歌:ゆらゆら帝国 作詞:坂本慎太郎)

以前、「その人の在り方がブログの文章にも出る」という表現をした。

逆もまたしかりで、

言葉はスラスラと出るのに、
まったくその人の在り方が伝わってこないことがある。

言葉はキレイなだけに
返事はいいだけに
いそがしくあちこちにアピールしてるだけに

「ああ、この人は幸せなのね」
「ほう、分かっているのね」

と、思われる。でもなにか、熱がない感じがする。
「幸せそう」なので、周囲の人はほとんど指摘してくれないのが
おそろしいことだと思うのね。

なにかその
「イキイキとしてわかってる風」な発信に対して
空虚なものを感じることってないだろうか。

もしくは、自分自身が

いい言葉はスラスラと出てくるのに
なぜか、書いていてしんどいと感じていたり。

そういうときは、気を付けた方がいい。

せっかく発信しているのに、言葉も在り方も、なーんにも伝わらず
人の記憶にすら残らないから。

*****

なぜこういうことを言うかというと

私自身がキレイ事ばかりを発信して
消耗していたことがあるから。

「これを言っておけばきっといい風に見てもらえるはず」

そう思って必死にアピールしているとき、
その人は、ソフトに見捨てられていると思っていい。

私がそうだったから。

そして、その状態にかなり慣れてきたから
今でも疲れてるとそうなることも、あるっちゃある。

いい風アピールしてたら
「ああ、いい感じなのね」と思うしかないでしょ。

ほかならぬ自分が自分の裏も表も、伝えないことには
誰もそれに対して、理解をしめすことができないから。

そして、それは無意識に自動的に行われているだけに、
本人は気づきにくい。

*****

もし、何かを発信しているのに
「ソフトに見捨てられている状態」に陥ってるなら
早々に脱する必要があるよね。

今思いつく、対処は2つ。

1つ目は、
「完成された知識」を求めることをいったんやめてみること。

本や、ノウハウや、まとまった何か。

完成されたとは言っても
誰かほかの人がやったことだ。自分がやったわけじゃない。

完成品だけを借りて、
分かった風なことを言うことに慣れ過ぎたら
自分と知識とが、どんどんと乖離していく。

だから、言葉にタマシイが乗らない。
在り方が伝わらない。

2つ目は、
ゆっくりゆっくりでいいから、自分の感じたままの行動を積み重ねてみること。

ほんとに、人から見たら
ささいなくだらないことでいい。

たとえば、私だったら

「お菓子は100円まで」
と子供のころに教わったものをなぜか守っていたw

それ以上食べて、ハマったらなんかしらんけどヤバい
みたいな、なんか実感の伴わない空虚な知識だけがあった。

おとなになってしばらくして、
買いたいだけ、買って食べたけど
ある程度したらすぐに飽きたし、余るようにすらなった。

べつにヤバいこたーない。
実感してみたら、そんなもんだ。

あるいは、

「テレビゲームにハマると心身によくない」
というキレイな知識を取り入れて
おとなになってからは、ゲームをしないまま過ごした。

実際、ゲームにぜんぜん興味がない時期もあったから
それはそれで、いいんだけど…。

あるとき、ふとやってみたくなって、やった。

やはりこれも同じく。
ハマるときはハマるし、飽きてやらないときはやらない。

実感してみたら、そんなもんだ。

そういう日常のなんちゅーこたあないことで手ごたえを得て初めて、
「自分なりの在り方」から出る言葉が
少しずつ、少しずつ蓄積され醸成されていって。

気づいたら、言葉に
在り方が乗るようになるんだよね。

ほんとうにくだらない(と自分が思っている)ことだからこそ、
書き手のそのままの、命や温度が伝わる。

くだらない想いを、まずは実践して
感じてみることから始めよう。

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