今年に入ってから、ちょっとした遠出にフラリと行くようになりました。
関西圏内であれば、気分のままに、数時間だけいて帰ってくることも多い。いちおうその時々にイベント等の目的はあるものの、行く理由はほとんど、その日の気分。特にその先にある何かに役立てようとか、身になるようにしようとか、そういう未来への目的を持つことが少なくなりました。
なぜなら、気まぐれな思いに忠実に行ったものほど、後々がっちりと自分の血肉になることが多いと感じたからです。
予想もしないことで知識と情報と経験が繋がって、「ああその答えはここにあったのか!」ってひらめく。思いっきり目的意識持って探してたときには見つからなかったものが、気まぐれな探索のなかに落ちていたりします。それも、すぐ目の前にあったりする。
たとえば、近所で数十円で借りた漫画の中に、数万円のセミナーで得られるようなことがさりげなーく書いてあったり。「どうして今まで教えてくんなかったの!」って思うこともしばしばあります(笑)。そこに気づくのはひょっとすると、数万円のセミナーに参加したからこそ、なのかもしれませんが、セミナーだけに通って正解を探していても、その情報には行きつかなかっただろうなってしばしば思います。
目的意識を持ち、問題を解決しようと、答えを求めることは悪いことではありません。
ただ、問題になるのは視野の狭さ。解決しようとするあまり、そこしか見ないとか、最短距離で行こうとすればするほど、後になって足を取られるのは間違いないと思っています。
なぜかというと、問題解決を中心に据えすぎるとき、人や自分の気持ちがなおざりになることが多いからです。些細なことだし、と思うかもしれませんが、些細なことほど、軽く扱うとツケが大きいんですよね。
気分のままに、目的を設けず、という生き方をするってことは…。自分の中に芽生えた「些細で、気まぐれな思い」を認めてあげる、ということ。そうやってココロをふわっと開いてあげると、いい情報が入ってきやすくなります。問題を解決するためじゃなく、気分をよくするためにやっていることなので、そこに執着も生まれません。
そして、脳の中で新しいひらめきやつながりが自然に生まれてきます。リラックスしているから。そうやってゆったりと視野を保っていると、それまで見えてなかったものが見えてくるんですよね。
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こういう、気まぐれな生き方をし始めてから思ったこと。それは、「目的を持たない」ことを恐がっている人は多いのかもしれない、ってことです。
何かに向かっていないと、自分の価値が損なわれた気がしたり。
何かを成し遂げないと、人に負けてしまう…と周りを気にしたり。
何かを身につけないと、自分には何もないような気がしたり。
だから、恐くなってついつい、人の作った目的のレールに乗っかってしまうのです。
乗っかって楽しい、ってのは別にいいんですが。遊園地や映画に行くようなものなので。
ただ、必要もなく楽しくもないけど反射的に乗っかってしまう、となるとこれはツラいです。視野が狭くなり、解決しない上に、自分のことも認めることができなくなってしまう。何も考えなくていいので、ある意味楽なんだけど、自分が削り取られていくような感覚。
自分の人生はこれだ!とゆるぎない目的がある人には、関係のない話かもしれません。そのまま突っ走れば充実した人生になることでしょう。
でも、目的がなんなのか分からない。いつも違う方向に興味が向いてしまう。そういう人は、いっそのこと目的を持たずにしばらく過ごしてみてはどうでしょうか。これは私の感覚ですが、同じ目的がない人生でも、この2つの生き方は真逆だと思います。
・目的なく、その時々の気まぐれや直感に従って生きる。
・目的がないのがイヤだからと、人に目的を乗っ取られてしまう。
私は前者をおススメするのですが。それはなぜかというと、自分の気持ちを叶えているので、少なくともその瞬間は満たされることができるから。また、知識だけじゃなく、自分の気持ちを消化しているので、いずれ一つの線で繋がる可能性もでてきます。
元々は生き急いで、ショートカットの道を探そうともがいてきました。だからこそ、その道の味気無さはもうたくさんだと思っています。人生を最短距離で、ショートカットして生きるのが好きならいいでしょうけど…。
私個人は、寄り道をたくさんして、遊び方をいろいろ知っている人の方に魅力を感じます。魅力が育つと、たとえ人生にアップダウンがあろうと、その魅力は失われません。
今後は、いろんな感覚のセンサーを育てて、味わって生きたいものだと思います。