昨日、自由意志についての記事を書いたら、今日読んだ本の中に答えがありました。
自由意志はあるのかーー答えは「ある」のですが、やはり非常に注意深く自分を観察していないと、自由のつもりで誰かの思惑の中だった、ということはよくあるようです。神様どころじゃない、ごく少数の人間の枠組みの手のひらで、遊んでいるだけ…私にもこれまで多々、心当たりあります。
たとえば、何かを新たに学ぶときにもそのワナは隠されています。
新たに学ぶ、ということはそれまで持っていた自分の思考の枠組みを出ることであり、知らなかったことを知ることによって、視野や世界が広がることでもあります。
ただ、それは裏を返すと、「自分の思考の枠組み」を出て、「新しい別の思考の枠組み」に入っただけ、ということでもあります。何かを学ぶということは、ある程度以上、先人が知識や経験を系統立ててくれたからできることです。そのことは悪いことではありません。
ですが、その系統だった知識を作ってくれた人たちにもそれまでのプロセスがあり、それを広める目的があり、回避したい未来があり…と様々な背景があります。何かを学ぶということは、その「知らされていない背景」も含めて同時にインストールすることになります。知らされてないのにどうやってインストールするの?って思うかもしれませんが、背景にあるものは暗黙の了解として、前提として、無意識のうちに入ってしまうことも少なくないのです。それを一般世間では「空気」って呼びます。誰も教えてくれないので、その「空気」もセットで学んでいることに気づく必要があるんですよね。
まあ、新しい世界に飛び込んだ上に、目に見えない「空気」まで理解しろというのは難しいし意味不明と思うかもしれません。だからまずは、
何かを学ぶということは、「自分の思考の枠組み」を出て、「新しい別の思考の枠組み」に入ること
ということを理解するだけでもいいと思います。自分がある種の枠組みにいる、ということさえなんとなく理解していたら、そこから出て疑問を持つこともできるし、それが自分らしい新たな学びにもつながります。
そしてそういうきめ細かな気づきの連続が、ゆくゆくは「自由意志」の獲得につながっていくのではないかと、思うわけです。