10月も終わりに近づいてますが、今月初頭に思ったことは、「あ、空気が変わったな」ということ。
社会的な空気ももちろん大きく変わりましたが、タイミングよく自分のエネルギーが満ちたということも感じます。
そしてあらためて、満ちてきたらどう生きたかったのかを思い出し始めました。
++++++++
私、社会に出て自分をすり減らしていた時代があります。
最終的には、結婚することによってその「すり減り」はずいぶんと癒され、感じなくなってきたのですが(これはとっても想定外のことでした)。
今、あらためて時代の変化とともに、私が何にすり減っていたのかが明らかになってきました。
それは、無意識にひそむ「仕方ない」という空気。
本当はこうしたい。
本当はこう思っている。
本当はこれをやめたい。
けど、
大勢がこうしているから「仕方ない」。
人間というものはこういう習性をもっているから「仕方ない」。
食っていくためには「仕方ない」。
大人になったんだから「仕方ない」。
そうやって、自分のもつ力や思いや可能性を閉じ込めてしまうこと。
そして、だいたいの場合、それが無意識に、ほんとうにほんとうに無意識に行われているということです。
このような可能性の閉じ込めは、音もなく脳内で、瞬時におこなわれるため、ほんとにほんとうに何かがそこで起こったことにほとんどの人は気づいていません。
さらに驚くべきは、心や思考や習慣に注意を傾けて、自己の能力を開花しようとする人たちですら、そういうことに気づかないうちに自分を閉じ込めてしまっているのです。むしろ要領のいい人ほど、この「仕方ない」を逆手にとって利用していい結果を残したりするので、「仕方ない」と思った方がいいのではないか?という錯覚すら覚えることがあります。
そしてさらには、その思考回路のままに、他人を閉じ込めたりコントロールしにかかることも珍しくはありません。気づいていない、ということはそこに悪意もまったくありません。
私自身、そういうことに幼少期からやたらと気づいてしまう人でした。
ただ、気づいていたからといって自分を変えれるわけでもなければ、そこで何が起こっているかを理解も説明もできない、という意味では彼らとなんら変わりはありませんでした。
ただ、空気中にただよう「仕方ない」という情報の集合体がなにかとても恐ろしいもののように見えて、うっすらとおびえながらすごしていたというのは実感として覚えています。
そして今、令和となり、時代が大きく変わるなかで、「仕方ない」という空気が本当は仕方なくないんじゃないか、ということに気づき始める人が出ている気がします。まだ、空気の大半を支配するには至っていないため、「仕方ない」の方が優勢ですが、少なくとも「仕方ない」と思ってた方が得をする、という場面は減ってきているようです。
わかりやすい例で言うと、
・ブラック企業に勤めていて心身ともに辛いけど、生きるためだから仕方ない。
とか、
・炎上商法するのは、そうやったら興味持つのが人間の性だから仕方ない。
とか。
まあつまり、易きに流れる方がなんだかんだ、メリットが得られるからね。というちょっとした惰性と諦めみたいなやつです。しかも、見逃してしまうくらい小さな惰性が潜んでいることもあります。それを指摘するなんて気難しい、と思えるくらいちっちゃなこと。
ええ、私も惰性に流されることはあるので分かります。分かりますが…。
これが「無意識」であることが問題なんですよね。つまり、気づかないうちに「仕方ない」「仕方ない」ってやってるうちに、自分にとって一番大切なことまで「仕方ない」を滑り込ませてしまう。それがいかにちっちゃなことだったとしても、その後の決断にズルズルと影を落とします。なんでいえるのかって?私はそれを「ちっちゃいから」といって繰り返してきた結果、やっぱり自分を大きくすり減らしてきたからです。
別に気にならない人はそれでいいかもしれません。
が、私は本当に気になる。「仕方ない」を一度やってしまったら、どこまでもそれが歯止めきかないことを身をもって知りました。
そして、この「仕方ない」の屍の上に何か大きなビルを築いたとしても、何も生まれないんですよね。また時代が変わったら、流行が変わったらいちから築きなおしです。無意識だからです。何も生んでない人たちの集合体が、何も生まない結果を生むだけ。
だから、私はこっからも引き続き「仕方ない」を気づいては取り除き、気づいては取り除きしていきたい。「仕方なくなかったら、どんないい世界があるのか」と考えられる人と会話したい。
別に「仕方ない」という世界の中で生きる人の邪魔をしようとか破壊しようとか思っているわけじゃありません。かつての私のように、そこから学び、そういうのが必要な時期もあるかもしれませんし。
でも、ひとたび
「本当に仕方ないのか?」
と考えられたら、360度一気に視界が開けるはずです。
そこは自由ですが、レールも足跡もありませんから、見る人によっては虚無が広がる恐ろしい世界かもしれません。ただ、そっからあーだこーだ考える方が私は楽しかった。ありがたいことに、そこには旦那さんという強力なパートナーがいたからかもしれませんが。
自分が無意識に「仕方ない」と思ってしまった、その瞬間を見つけたらそれは宝箱です。その中には「仕方なくなかったらどんなにいい?」という質問とその答えが入っています。そして答えは自由。
こうやって書くと聞こえはいいんですが、実際にあーだこーだ考えると、気難しいと思われちゃうことも多いんですよね~。でもまあ、地道に対話できる相手を探せたらと思っています。