機が熟す、とはどういうことか。

目的ができたとき。
何かしら自分の生きたい道に気づいたとき。

そこに至るまでの道のりには、誰にも気づかれない、数としてカウントできない積み重ねが必要なことがあるんだよね。

毎日●個のシゴトをこなす、とか、成績で●位になる、とかなら、客観的に見てもそれなりに評価を受けるだろうと思う。
でもたとえば「自分であり続ける」とか「やりたいことを徹底的にやりたい方法でやる」とかになると、抽象的な上に自分にしか実感できないから、評価のされようがない。

誰にも気づかれない、数としてカウントできない。
ゆえに、自分ですらその重ねたプロセスがいかほどのものかを、意識できなくなることがある。本当にコレでいいのかを疑いたくもなる。

分かりやすく現実になるまで、その道を信じられなくなることも何度もくるだろう。いったいいつになったら…こんなにやってるのになんで…と思ったりね。かと思えば、もっと・まだまだ・こんなもんじゃないと、ただガムシャラに、歯を食いしばることもあるだろう。なにせ途方もない。そして、道なかばで辞めてしまうことも、ある。

でも、実際は目に見えない世界で、その積み重ねはなんらかのカタチで貯蓄されている、と思っている。あくまでイメージだ。でもそれがイメージできるだけで、チカラが湧いてくる。そしてまさに、機が熟したときに、思いもよらぬ方向からその果実が手に入る。

私はこのイメージを始めてから、人生を諦めなくなってきた。たとえるなら、潜在意識的な器があって、それに一滴一滴、ちいさなしずくが毎日落ちていくようなイメージだ。いかに1日に落ちる量は少なくとも、1年経ったら、3年経ったら、それがある程度満たされるってことは誰でも予想がつくんじゃないかな。そういう風に、リアルなモノに置き換えて、きっとこれくらい貯まっているんじゃないかな、としっかり実感していくといい。
たとえば、ブログを書き始めて初期もそういうイメージをやっていた。ブログに反響を得られるというイメージができたから、そこに向かって機が熟すまで続けられた。
で、やっていくうちに、反響があるまでこれくらいのエネルギーをブログに貯めたらいいな…という感覚を、実際の手ごたえと連動できるようになってきた。

そう、つい最近も別の件で、このような積み重ねが現実になった。6年ほど、ほぼほぼ何の結果も出ていないようだった、目に見えなかった積み重ねが、現実としてリアルに、ポロリと落ちてきた。ちょうど果実が実って、地面に落ちてくるように。

ただでさえ、人目に触れない努力というものは雲をつかむように曖昧だ(※当人が努力と思ってなくても、地道に積み重ねていればここでは「努力」と呼んでみようと思う)。特に、心に対するアプローチというのは、やってることすらも目に見えない。

だから、ほかならぬ自分こそが、自分の積み重ねセンサーを敏感にしておく必要がある。どんなにささいなことでも、「こんな変化があったな」「ここはできるようになったな」「先月よりこういう成長ができたな」ってこと細かに気を配り、しっかりと自覚しておく必要があるんじゃないかと。人か気づいてないからと諦めるのは実にもったいない。人は、他人の見えないとこに構ってるほどヒマじゃないだけだ。見えないのだから当然だ。

なにか、諦められないことはあるだろうか。
今は本当にやりたいようにやれてなかったとしても、本当はこういう方向がいいんだ、という秘めた想いがあるだろうか。
あるならば、ほんの些細なことでもいい。毎日1ミリでも半歩でも、今できることを積み重ねて、誰よりもそれを味わい、実感しよう。
見えない世界での貯蓄は、スケールに関係ない。想いの強さが何よりの積み重ねだからだ。

Photo by Valdemars Magone on Unsplash

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