いかに「余分な美」を追究できるか?

私の2015年の目標は、自分が楽しむことばっかりです。

人に何かをしてあげようとか、自分を鍛えて何かを達成しようとか、この数字だけは譲らないとかそういう目標は極力、今年は持たないようにと考えてます。

今のところね。

なぜなら、自分を楽しませることを追究する方が、追究してるその時点で意義を感じられるし、いちばん早い。ということが分かってきたから。しかも、自然なカタチでね。

あえて厳しそーな?言い方に変えるならば、自分を楽しませることが何よりの「努力目標」ですわ(笑)。ええ、これらはサボらずに「縛ってでも」しなきゃいけないのです。

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私、恥ずかしながら起業をした時点では、まだまだ

「自分の中の欠けた穴を埋めるため」

に頑張ることがスタートでした(その時はそれなりに機が熟した!と思ったんですがね(笑))。

・容姿コンプレックス
・能力コンプレックス
・お金コンプレックス
・夢見る夢子ちゃんコンプレックス
・男に負けたくないコンプレックス

などなど…。今思えば懐かしい面々とお付き合いをしていました(笑)。

で、大阪に来た1年半前から今までで、本当にその穴がほぼ、埋まったかのように、感じられなくなってきたんです。当初やりたかったこともだいたいひととおりできてきたし。まあそんなもん、完全に埋まったかどうかなんて目に見えないし計れないんですがね。

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明らかに、以前のモチベーションではぜんぜんエンジンが効かなくなってて、一時期は逆に焦りました。だって、別にその「努力」がなくてもそこそこ幸せなんですもん(完全に自分のためにやってますよねこれ w)。

ただ、これは自慢でも自己卑下でもなく、本当は自覚しておくべきことがあって。それはなにかというと…「今が幸せだからといって、自分に満足していたわけじゃない」ということ。

未来への不安が減ったわけでもなければ

まだまだチャレンジできてないこと
もっと人に何か伝えられること
人を見て羨ましいと思うこと

が、わんさかあるわけですよね。それを見ないフリをして、そこに腰を降ろすことはできるんです。でもそれは、諦めだなと。

満たされていないものを満たすまでは、「足りない」「苦しい」という痛みが「幸せ」への方向性を指し示してくれます。自分の「幸せ」を、人生のゴールにするのなら。私も、ほんのちょっと前まで苦しみに導かれて、苦しみから逃れたくてここまできたようなものです。ですが、そこから先は道が続いてなくてどう行けばいいのか分からない。

まだ見たことない景色が広がっていて、トライしてみないことには楽しいか、苦しいか、退屈なのか、充実してるのかすら、わからないことだらけ。その先を知らないままそこに腰を降ろすんであれば、今までと同じなのではないか?と。

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だから、自分を楽しませることが何よりの「努力目標」。という言い方をしてみました。

これ以上美しくなくても生きていける。
これ以上楽しくなくても死にはしない。

と、これまでの時代は思って生きてきた人も多かったかもしれない。

でも、80年近く「死ななく」いや、「死ねなく」なった人類にとっては

より個人的な美しさを求めなくては
より個人的な楽しさを求めなくては

生きてる意味が感じられないんじゃないかと私は思うんです。だって、同じような「幸せな」生活スタイルの人はわんさかいる。情報も知識も、ネットを通じてすぐに広まります。人と同じことをただなぞるだけなら、別に自分じゃなくてもいいのでは?って思いかねないでしょ。
自分のココロで本当に感じはじめないと。

【自分美学】というのも同じ思想からきています。これからは

「自分は本当は、どんなものを美しい、楽しいと思うか」
「それを誰と分かち合えるか」

が生きる意味のひとつになってくると思います。

余分な望み、余分なうつくしさ、余分な楽しさをいくつ持てるかが、2015年の私のチャレンジです。大袈裟なんですが、いつもパートナーとこういうことを真剣に話してたりします。

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Photo by Tj Holowaychuk on Unsplash

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