以前、購読していたメルマガを久しぶりに開いたら、ちょっと「?」に感じるメッセージがあった。
購読していた当時は私自身、変化や成長をいのいちばんに求める状態だった。だから新しい情報や機会があればすぐにでも取り入れたいと思っていた。その変化を取り入れた結果がどう転ぼうとも、それ自体に悦を感じていた。求める変化が手に入ったかどうかは分からない。でもその経験をもとに少しずつ自分が開拓されていってる実感もあった。
でも、数年経ってみて、その変化のほとんどは自分からはがれていった。自分が勇気を出してチャレンジしたことや、自分にフィットしていたことなど、本質的なことは残っている。でも、定着するものとしないものがあるのはたしかだ。
↑この経験あって今の自分があるから、ムダだったとは思わない。おかげで些末なことにはマイナスにも、むしろプラスにも揺れ動きにくくなったし。
で、冒頭のメルマガの文言についてなんだけど。違和感があったのはこういうメッセージだ。
◆この機会にかけて本気で変わろうとしている人は人生を変えるでしょう。
結論から言うと、ある情報なり教材を売るセールス文言。もちろんこんな乱暴な一文だけじゃなく、懇切丁寧にその理由までつづられている。
ちなみに、私自身セールス文言だからといって抵抗があるわけじゃない。その人がいいと思うものなら売ったらいいと思うし、欲しいと思う人が買えばいいと思うから。セールスは出逢いのキッカケにすぎない。
そこじゃなく、「この機会に賭けるぞ…!」という意気込みで何かをつかみにいくこと。これがかなり無理のある姿勢に見える。そして、日ごろなにもやってない人をいっとき焚きつけたところでその人が変わるとは思えない。むしろ、「思った変化」がおとずれなかったときの落胆の方が大きくなるんじゃないかということだ。
「この機会に賭けるぞ…!」
そういう発想になるってことは、それ以外の機会で何も真剣にやってないってことじゃないだろうか。日ごろ賭けたいものが大してない人は、「なにかに賭ける筋肉」が発達していようはずもなく。そのコミュニティで、いきなり成長なり成果をつかんだように見える人がいたら、おそらくは「なにかに賭ける筋肉」をどこかで鍛えてきたとか、生来の人たらし上手だったりとか、なにかしらうまく立ち回れる素質があるはず。
私が変化を求めてあちこちさまよっていた時代の経験から、そんな風に思う。
では、「この機会に賭ける」ことなしにどうやって変化するんだ?ってことなんだけども。
それは、日ごろから「賭けよう」なんぞ思わなくとも自然に興味が動くことだけをやれってことだ。
つまり、日ごろからちょっとでも時間を「賭け」ようと思わないことをわざわざやる必要はおそらく一生、ない。たとえ5分だろうと、時間をかけることはある種の「賭け」だ。それを苦もなくできる人でもないのに、何かに参加したり啓発されたりして、いきなり変化できるはずもない。変化って、その後それが「継続されるかどうか」も含まれているからさ。
「この機会に賭けるぞ…!」
という意気込みを持ちすぎることって、普段、関心も持たないことに対して、美味しいところだけつかもうという姿勢にすら見える。なんでそう思うのかというと、私がそうだったからだw このブログにつづってきたことにひもづけると、忙しすぎたからだ。なんだかんだとスケジュールを詰めることによって、肝心な「自分自身の関心」に対してエネルギーを注ぐヒマがまるでなかった。だから人が提供したなんらかの機会に無理やり乗っからないといけない。それじゃ、少なくとも「自分のモノ」にはならないよ。
そのお金と時間つかって美味しいものを食べたりでもした方が、味覚が鍛えられる分よっぽど健全な気がしてさ。そう、自分の関心はむしろ、味覚とかいうちょっとしたことからこそはじまるんだ。
だから、自分の本当の関心をさぐろう。変化や成長がのぞめなくったって、何分でも何時間でも、気づいたらかかりっきりになってしまえるようなこと。それこそが「賭けている」という姿勢そのものじゃん。自分がすでに、もしかしたら何かに「賭けていた」こそに気づくことこそ、始まりなのかもしれない。