「何を」やっていいか分からなくなったときは、視点を上げる時期。

前回、こういう記事を書きました。

「狭く、けれども深く」。内向的な人は、小手先で広げたりしなくてもいいんじゃないかと思う。

 

でも私自身も、少なくとも1年前までは、何を深めていいか分からなかったし、もっと言うと何もしたくない気分ですらあったんです。

 

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今年40歳になるのですが、30代である程度、これまでの人生の集大成的なことができたとは、思っています。興味のあることはすべて顔を突っ込んだし、ちょっとでもいいから、必ず触れてきました。そこで納得いったし、結婚もしたことで、ある時フッと気が抜けてしまった。プライベートはそれでいいんですが、ある種社会的な意味で、生きる理由が分からなくなった感がしていました。

「これまでやってきたことが、一生深めたかったというほどでもないのか」、という自分の浅さ(に思えた)にも呆然としました。なんか仕事的には、打ち込めるものや天職が見つかったらゴール!みたいな幻想めいたものが、自分にあったのかもしれません。結婚がゴールとは、全然思ってないのに(笑)。執着のない分野ってそういうものなのでしょうか(笑)。

でしばらくは、能力的にできそうなことや、これまでやってきたことの塗り直しをしていました。

でもこういっちゃワガママですが、気持ちの鮮度はまったく落ちるんです。たとえ新鮮なことを思いついても、瞬間的にしかパワーが出ないんです。落ちたらまたどっかからパワーを補給しないといけない感じ。これは私のなかに、思い込みが溜まっている。大掃除が必要かもしれない…。うああ、ひろい、手をつけるにはあまりにひろすぎる…。そう思ったのが2年ほど前でしょうか。

 

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小手先で悩みを解決したり、知った方法を試しても火がつかないとき。足を取られちゃうとき。これは視点を大きく上げる必要があるときだと、経験から分かりました。

そんとき私が陥ってたのは、「なんだかんだ言って誰かが用意したレールを走ってしまっている」という病みたいなもんでした(笑)。自分を深めてないんですよ。なぜかというと、ギモンが出る前から、解決策を先に知ってしまってたりするから。身につかないし、そもそもその策は自分から出てきたもんじゃない。だから生きてる実感に実は乏しい。そういう浅くて短いサイクルをグルグルと回っているだけ。

それでも当初、自分でブログを立ち上げて発信して人を集めて…ってのが未知体験だったときは鮮烈なんです。ですが喉元すぎればまた同じことの繰り返し。すべてラットレースに思えてきます。そういうの、感じたことありません?

 

このときに、ひとつ手放した考え方があります。それは、

■「何を」やろう?「何を」深めよう?

という発想。何を、何を…と考えているうちは、既存の分かりやすい答えしか見えてこないんです。誰かがやってて、提案してて、ルールや思想も、なんなら集まる人種も決まってて、ある程度のコミュニティや文化すらできているもの。下手したら、即金になりそうwというところまで出来上がってたりとか。

それはただの椅子取りゲームなんですよね。

 

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たとえば、既製服は、すべての人にサイズが合うワケないんです。そこからはみ出た人はオーダーメイドの服が必要になる。好みもそれぞれ。気分も変わる。ならばそれも自分で把握して、仕立て屋さんにオーダーしなければならない。

でも何をオーダーしていいか分からないなら、「何を着よう」と考える前に、目を惹いたものを片っ端から着てみるという体験が必要です。ちいさな実体験が積み重なっていって初めて…おぼろげながら本当に着たいものの全体像が浮かび始めてくる。

 

私は、人生というスケールでそういう状態を体験したことがないんじゃないか。と思ってました。

幼少期から、両親から提案された習い事はすべてやり、しかも習い事自体は大好きだったし、教材や教室で育ったようなもん。そういうのが自分だと思っていた。学校とは違って褒められるし、それが嬉しいからやってました。でもいざ続けると窮屈にもなる。熱も冷める。そういうことを繰り返しているだけでした。

実は、その枠組みの外で何かをしてた時期があったんです。

小学校時代の友達と、新聞や雑誌みたいなものを定期的に書いてみたりしてました。『ストロベリー新聞』だとか。遊びやお菓子作りサークルに名前をつけたこともありました。クリスマス会を企画し、プログラム進行からダンスのBGM選択と振り付けを考えたことがありました。それは習い事とは違って、えてして「やってる」という頑張りも自覚もなかった。だからこそできたのかもしれません。

 

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■「何を」やろう?「何を」深めよう?

大の大人になって、これらをあらためて脇にそっと置いて、毎日をその日暮らし、気分だけで過ごしてみました。だいたいいつも気分なんですけどねw でもなんか、底の方にちょっとでも引っかかってたから深まらなかった。これは確かなんです。

そうやって「何を」という自覚がないままやっていくうちに、食のプチ自給自足だとか、それにまつわる園芸やレシピづくりだとか、それを人に発信するための世界創りだとか。そういうのがしぜんと、素材として集まってきました。いまだに「何を」深めているという自覚は実はありません。ですけど、たしかにそこに一貫したものが浮かび上がってきているのが分かりました。

自分の自然なライフスタイルに溶け込んでいるもの。

教わらずとも、もっと知りたいと無限に好奇心をそそられるもの。

さらには、自分の手を動かしてウデを磨かないと前に進めないもの。

そして、そのあり方は既製服ではないので、暴れても走っても、腕をぶんぶん振り回しても破けないのです。むしろ自分ののびちぢみに合わせてカタチを作ってくれる。とても着心地がよいのです。

 

このことから、自分に眠っていた願望があらたに発掘されました。

それは…「今がどうあれ自分を100%信じる」。この状態を生きることそのもの。今やっている何かを急にやめたとしても、ぜんぜん違う場所に移り住んだとしても、あるコミュニティで新参者だったとしても。すごい人が隣にいたとしても。「今がどうあれ自分を100%信じる」という状態をずっと続けていられれば…それは私にとってものすごく心地のよいオーダーメイド服のようなあり方じゃないかな、と思ったんです。

これについては、また別の機会にでも書いてみようかと思います。

 

 

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