ヘンクツ人間の社会サバイバル術。

「飛んでるゴムの球に木の棒打ち付けて、何が楽しいん」

って、野球を楽しんでる人に対して言いかねないような人格でした、私。
いや、今もその因子がある人間です。

なんか、人の集まる現実社会に現実味を感じず、閉じて自分の心の中にだけ生きてるような子供でした。
そっちの方が自分にとって、リアルだった。

気づいたらそんな人格だったからこそ、哲学ちっくにこの世界のことをあーだこーだ考えて、時には根底からひっくり返して妄想を楽しむこともできました。それが冒頭の、野球の例。いちいち前提を疑いたがる。そもそもそれって…と穴が開くほど穿ってうがって見て、その正体をあばいたような気になる。

でもそれって多分、最初のきっかけはささいなものだったと思うんです。うまくスポーツを楽しめなかったり、特定のルールで人がやってることに入っていけなかったりという、単純な寂しさから始まったものなんじゃないかと。今、社会のはしっこでギリギリ生きている「大人」になって思い返すと、そういう気がします。


自分としてはその妄想が楽しいつもりでいるんですが、当然、ひとたび自分の世界から出ると、それって生きづらいだけなんですよね。

たまたま生まれ落ちたところが人間社会で、そこにはすでにご先祖さまが何千年もの間、試行錯誤して整えてきたルールというというものがあった。

なんでそんな風になったか、子供の自分にはにわかには分からないけど、とにかく人間ってやつは好き勝手したがる種類の生き物らしくって。大量に増えてしまったその種族が、この星を滅ぼさずに生きていくには、その歴史ある試行錯誤の上のルールにのっとって生きるしかなかったらしい。
ときにはそのルールが暗黙の了解のこともあるし、わざわざスポーツのように、ルールで縛って楽しむことすらあるらしい。人間ってやつは。

そうやって、人間社会にあるルールやお約束を、ひとつひとつ後天的に理解していきました。

私みたいな人間は、ルールをある程度「そういうもんや」と飲み込むことから始めた方がいい場合もあります。
そういう星に生まれたんや。なんでかは、分からんけど。と。

そういうゲームをやってるだけ、と理解するとすんなりいく場合もあります。

「なんでそういうルールなんや!」といちいちその辺の人に喰ってかかっていっても、そもそも誰も答えは分からんわけで、そういう生き方は不毛やと思います。知らんうちにゲームオーバーになって終わるだけ。

それを知った上で、そのゲーム上でうまいことルールを破ってみる。
ゲームのルールを理解してうまく乗りこなしてみる。

その方がはるかに建設的だし自由になれるんじゃないかと、だんだん理解していき、早半世紀に突入しそうです。

ゲームのルールから早々に転落してレールはみ出てしまったけど、最近、社会の片隅になら入れてもらえるようになってきたかも。せっかくのこの身体、もうちょい活かせないもんかと思っていますが。

皆さんはどうやって社会のルールと折り合い付けてますか?

UnsplashEduardo Balderasが撮影した写真


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