最近で、最も楽しかった本がこちら。
『タフティ・ザ・プリーステス 世界が変わる現実創造のメソッド』
そもそもこの本より先に、著者のヴァジム・ゼランド氏が書いた別の本をネット上で知りました。こちらのタイトルは『振り子の法則リアリティ・トランサーフィン』。もうこのシリーズ絶版になっているため、高騰して1冊4‐5万円とかになってますがw 私も知ったときにはすでにけっこうな値段だった記憶があって、持ってないので、本紹介動画とかを見漁って概要を学んでいます。
いずれにしても、この著者に惹かれる点は、「現実」というものをスパっとドライな視点で定義している点。人間を見る視点に「情」とかを入れず、一見無機質な「こうなってんだから仕方ねえだろ」という仕組みからひも解いていく感じです(余談ですが、情はなくても愛はある、と感じています)。
たとえば、『振り子の法則』の内容を見ると、こんな感じ。
・世の中にはエネルギーの情報体が無数にあって、それを「振り子」と名付ける。
・この「振り子」は、人を感情的に揺さぶったり、振り回したりして、「振り子」自身を維持するために人からエネルギーを吸い取る。
・「振り子」の例には、家族などの小さな共同体から、会社組織、国や宗教まで、さまざまなものがある。
・「振り子」にエネルギーを奪われているうちは、自由に生きることができない。
・自由になるには、「振り子」をかわすか、手なづける必要がある。
※本を参照していないので、記憶が少しあいまいな点があるかもしれません。
私はこの概要を聞いて、「そらそうやろ!」と共感しかないというか、もともと個人的にも、世の中に持っていた違和感的なものが、ここまで明瞭に言語化されていることに驚きました。
ずっと思っていたんですよ。分け入っても分け入っても、情報体の中。ある意味私たちは、生きる場みたいなものを、いかに初めから与えられて生きていることかと、思わされます。
生まれたてのときは、家族がいるのは生物学的にまあ、いいとして…。しばらくすると保育園に通い、気づいたら小学校行って、塾や習い事…。それ自体のいい悪いは、ここでは置いておきます。
が、もうありとあらゆる「振り子」に振り回されて生きることがデフォなんですよね、私たちって。しかも、「野山をかけめぐって、自分に合った情報体を探してこい!」なんて言われることは、まずなく…。まあ、与えられまくって安心安全、なのかもしれませんが、それが自分に本当にフィットしているのかは、問うヒマもないうちに次々に適応していかねばなりません。
私は、たまたま転校とかがかさなって、その適応の流れからちょっとズレてしまって。転校や引っ越しなどをすると、ある情報体では常識と信じて疑わないものが、他の情報体では人でなしと判定される、なんてことが日常茶飯事だということに、気づいてしまったんです。大人たちは、そのことを知ってか知らずか、常識がいかにもろいのかを、説明できないようであります。
気づいたら「振り子」の中にいながら、常にもう一方の視点は「振り子」の外から眺めてるみたいな、プチ幽体離脱状態になっていました。この話しても、あんまり共感されないんですよね…。
気づいたら、いつもどこにいても、「その外はどうなっているんだろう?」という好奇心の方が勝っていて、その実、「振り子」にバッチリ慣らされるように(いい子?に)育ってしまって。出たいのに出方が分からない、でもどこかに閉じ込められているような感じがする、という日々を長く過ごしてしまいしました。
ここまで書いていると、「振り子」が悪者のようですが…(実際、長年私は人のコミュニティにアレルギーがあったのですが…)、悪者扱いしたところで、どうにもならず。
そうではなく、「今の自分の行動は振り回されているのではないか?」「選択できているのか?」に気づく視点だと思うんですよね。私なりの長年の「振り子」観察によると、「振り子」そのものが生きながらえようとしているだけで、基本的に悪意とか善意というものがあるわけじゃないと(そう考えた方がラク)。
それはそれとして、私という情報体はどこへ向かっているのか?このまま「振り子」に振り回されてていいのか(たとえオイシイ立場を与えられてるとしても、です)?
ここで本題に戻るのですが、最近読んだ
『タフティ・ザ・プリーステス 世界が変わる現実創造のメソッド』
です。
ここでは、「人生の台本は変えられない、でも別の台本に取り換えることはできる」と教えられます。人生全体をコントロールする、ってなると、一筋縄ではいきません。神に逆らうようなもので。
でも、シンプルにいうと、向かいたい先に「意図」を放つ、という自由は人間に残されているのです。いかにチカラのあるあれこれに、人生を引っ掻き回されてるように見えようとも。
具体的な方法は本に書かれていますが、とにもかくにも、「気づく」ことが大事。
私自身もそうですが、しばらく無意識で生きていると、今目の前で展開されているシナリオにどっぷりハマり、自分が生きていることを忘れてしまうんですよね。映画館にいることを忘れて、映画の世界にどっぷりハマっているようなもんです。映画はそのために行くフシがあるからいいんですが。
以前の記事でお話した、自動思考を止めるというトピックにも共通点があります。まず、自動思考というドラマにどっぷりになっている自分に気づく。まず、目覚めることが大前提です。
これはもう、毎日のトレーニングみたいなもんで。私自身もこのことを知っているものの、一日のうち目覚めずに生きている時間はなんぼもあります。SNS見たりとか…笑。
で、ここんところ数日なり、数か月がまぁ平穏だったから、みたいな理由で、それでよしみたいに思ってしまうのも人間。なんなら、眠ってようが振り回されてようが、目先がオイシイ思いできてるからいっか、みたいなズブズブな毎日、誰しも一度や二度は体験あるかと思います。
でもそれって、自分の持っている幸せの可能性のうち数パーセントしか使ってないんですよね。それでも私はいい、とかいう話ではなく、なんならその可能性を眠らせているお陰で、病気になったりもする。人生ゲームはいろいろワナがあります。私も痛感しました。
そんなわけで、面白いと思ったことの数パーセントしか話せていないんですが。
ちょうど今の時代ネットもあるし、目に見えて人を巻き込もうとする「振り子」の動きは、客観的に観察できるいい時代になったと思います。どうせあれやこれやの影響から逃れられないなら、願わくば、少しでも自分の意図に沿った「振り子」とダンスを踊れるように。
引き続き、今この瞬間の自分に気づくトレーニングというものも続けていきたいと思います。