なぜそうするのかを、自分に問い続けてる。

自分自身の生い立ちについて、思い出したことがあるので書いていきます。

子供の成長の過程で、「なぜなぜ期」ってあるらしいですよね。小学校入るくらいまでの間でしょうか。知らないことを発見するたびに、「なんで?どうして?」を大人に聞いてまわる。大人でも答えられない質問を浴びせられて、アセアセしちゃう人もいるかもしれません。

思い出す限り、ですが、私はその「なぜなぜ期」をずっとやっているような子だったんじゃないかと、思います。

さすがに、ずっと「なぜ?どうして?」と言い続けたら周りの大人に煙たがられるでしょうから、相手に質問はしないまでも…ちょっとでも違和感が湧いたら、「え、なんでだろう」というギモンがつきまとって、飲み込めない時期を長く過ごしたような気がします。

別に疑っているつもりはないんですよね、周りの人を。
そうじゃなくって、「世の中そういうもんだ」と言われたら、「そういうもん」の中身をもっと、こう、解像度高く知りたいと思ってしまっていたんですよ。だって、「そういうもん」が、生きてたらもう、無数にあちこちに落ちているわけですよ。そしてなぜか私が学んでない知らない「そういうもん」を、周りのお友達の方がたくさん知っているように、見えるわけです。

誰も教えてくれないんだ…そういう不安感の中を生きてきた気がします。
なんとなく皆がつかんでいて、特にギモンにも思っていないようなことを、私は理由を知りたい、純粋にただ、好奇心から知りたい、と思ったわけです。

大人になって(だいぶ経って)、心理学だとか社会のしくみだとか、忖度だとか、そういうものを後天的に身につけていく中で、いかに「なぜ?どうして?」と言うことが無粋なことかは、分かってきました(笑)。生きていくためには、飲み込んだ方がいいこともたくさんあることも、理屈じゃなく、体感で分かってきました。

でもその「分かった」って、やっぱり本当の本当に腑に落ちたこととは、違うんですよね。

一人の人間には、世界はとうてい知りえないくらいに広くて、大きくて、たくさんの情報でできている。そして、私は今世生まれ出たこの「私の立場」でしか世界に触れることは、できない。

でもできないなりに、少しでも「ほんとう」に近づきたいと思うんですよね。思う反面、世界には「絶対的に確かなこと」なんて、存在しないんじゃないか、とも薄々思っています。←このことも含めて、「ほんとう」に近づけたら、どこの誰が正しいとか正しくないとか、どうでもよくなってラクに生きられるんじゃないかと、思っています。

そうか、ただラクに生きたいがために、こんなことを感じ考えていたんだなぁ、とあらためて思いますね。「世の中そういうもんだ」で終わらせるのは、案外私にとって、ラクじゃなかったのかもしれません。

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