前回、
という記事を書いたんですが、そもそも「自動思考を止める」という概念、
思考が止まっているのが“良い”状態であるとする概念が私にはありませんでした。
それもそのはず、考えたことをコトバにして初めて成り立つ社会に生きてますから。
この「自動思考」という概念を知ってからちょっとだけ調べてみると、ざっくりと
①悟りに興味があり一瞥体験をしたいと考えている。瞑想などを実践している
②ビジネスなどでいいアイデアが欲しい。マインドフルネスの考え方を実践している
③健康方法のひとつとして。過度な思考が健康のさまたげになることを知っている
といった層の方々には、思考を止めることを試みる意味は周知の事実だったようです。
(知識とは言えないくらいざっくりした、あくまで印象です)
私もその辺りにまったく興味がなかったわけではないんですが…(特に①とか)。
なぜか「思考を止める」に関してはどちらかというと良くないイメージの方が先行して、
その意義までは入ってきてなかったようなんですよね。
ざっくりと、「雑念を払う」くらいの感じで捉えていました。
そりゃー雑念は、ないなら、ないほうがいいよね。
それと、①界隈で言われていたのは、一瞥体験などは偶発的な出来事に過ぎない、
だからそれを追い求めるのはナンセンスであり、むしろ体験により「俺エライ!」的な
エゴを肥大化させることにもなりかねないから期待をしないこと、といった視点。
「自動思考を止める」、といった概念はあれど、それは超人的なことであって
長年修行を積んだ人にも難しいのだから、そもそも「止まらんよ」といった立場。
そういった意見はよく目にしていましたので、余計に重要視しなかったのもあります。
今回、自動思考を止める実践において参考にしているネドじゅんさんの
考え方によると、
・勝手に湧いてきて止められない「自動思考」
・自ら脳を駆使して思考を深める「思索」
この2つを分けています。
あくまで順番としては自動思考を止めるのが先であると。
そうでないと、今働かせているのは「自動思考」なのか「思索」なのか
体感的に区別がつかないからです。
この「自動思考を止める」という実践を始めた当時は、
脳内がグルグルと堂々巡りをするのにちょうど悩んでいた時期でもあり、
とてもじゃないけど止まらない…というのも分かる感じでした。
私の体感についてはまた、次回に譲ります。