ほんとうのほんとうは「何が」実ってほしいのかを、問い続けてみよう。

先日、ひさびさに映画を観に行ってきました。

場所は第七藝術劇場。こじんまりとして素敵な映画館でした。

『人生フルーツ』

愛知県の一軒家に住む、とある老夫婦の実際の暮らしを描いた映画です。
(詳しくはリンク先のサイトをご覧くださいね)

ご主人は、建築のお仕事をされてました。とあるニュータウンの、大規模な計画にたずさわっていました。ですが、本来目指そうとしていた住宅街のあり方と現実に求められるものが異なっていたため、仕事から離れてニュータウン内に自宅を構え、そこで理想の暮らしを追求し始めます。

ちいさな庭に雑木林と果樹を植え、落ち葉とコンポストで土を肥やす。何十種もの野菜と果物をまいにち、手をかけて育て、ていねいに調理する。自分と家族にとって、ゆたかな住まい方とは…自分と配偶者はどうしたいのか…子孫に残せるものはなにか…。
を心に聞き、足元をたしかめながら、じっくりとかなえていく。

自分の理想とかけ離れた仕事を依頼されても丁重にお断りしているシーンもありました。かといって仕事道具もスキルも、古びてない。そのあいだに、自分の時間を熟成され、ほんとうの目的像を磨いていっているのです。

実に理想的な生き方だと思いました。
とカンタンに言うものの、目先の損得やエンタメ、外からの期待に忙殺されている心では、決して実現できない生き方とも思います。

この映画を象徴するフレーズはこれ。

風が吹けば、枯葉が落ちる。
枯葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果実が実る。
こつこつ、ゆっくり、人生、フルーツ。

 

このご夫妻のような生き方をまんま、誰しもがやればいい、とは思いません(私も含めて)。それぞれが自分の心に問うた結果、それは違う生き方になっていくはずだからです。
ただ、人生を果実のようにとらえたとき、本当に実るまで何年でも待てることはなんなのか。ほんとうのほんとうは「何が」実ってほしいのか。豊かに生きたければ、誰しもこれを問い続ける時間が必要なんじゃないかな、と思いました。

すぐに結論の出ることじゃないんですよね。
なんのために生きているかを問うのとほぼ同義ですから。分かったら誰も悩まない。ただ、その問いを続けられるかどうか。目先の、借りものの結論に乗っかって生きるのではなくてね。

というか、すぐに結論を出すということがそもそもこの価値観とズレているんじゃないかな。実際にやることと言えば、なにも華々しい結果を出すことじゃない。「ただ生きる」、それを積み重ねるだけですから。

この映画を観て、そういうことを感じました。

===

過去のブログを読み返してみると、私自身も、1年前までの心は「忙殺」モードでした。いちおうは(ここだいじ)自分の意思で動いているつもりなのです。ですが、どこか「やめられないな」と感じている自分がいました。つまり、自分の意思のようでいて、なにか別のものにつき動かされ、焦って動いてるだけだったんですよ。

実際に過密スケジュールをやめてヒマになってからもしばらくは、心がそのモードから抜け出れない日々でした。寝ながらも明日の予定がどこか心配で、やるべきことが山積みのような気がしていたのです。

で、2017年の今年に入ってあるキッカケが積み重なり、すっかりそのモードを忘れ去るほどになりました。
まるでパチンと何かの配線が切れたかのように。

私の願いの本質は、「没頭没我できるような日々」だったのです。
つまり、ゴチャゴチャ考えてうまくいきそうだからやるとか、何かを外から身につけてちゃんと覚えておくとか、メリットがあるとかないとか、そういうことをぶん投げて。夢中になって、我を忘れられる状態に自分を置くこと。自分の世界にのめり込むこと。たとえ1日数時間でもいい。できれば毎日がいい。

気づけば、それがほぼ毎日になってきています。
時計を忘れて、広大な安心感のなか生きているのが、以前を思えば実に不思議なくらいです。

 

そういう姿勢って、たとえば職業的にアートをやってたらできるのかなとか、お金やら仕事の心配がなければいいのかなとか、そんな風に思ってました。でもシンプルに自分のあり方の問題だったんですよね。何をやっていようと、そのあり方を選択して、かなうように動けばいい。そして何年でも、持続することもできる。

それが、果実のように実る生き方かな、と今は思っています。

十年後は変わっているかもしれませんけどね。それでもいい。結果はなるようになるから。
よくある、「十年後の自分がどうなりたいのか目標を立てよう」というのとは、全く似て非なるものだなと、やってみて思います。意図どおりの結果に持っていくことが目的じゃないから。

そのモードに移行する際に、何をしたかな。

今思い返してみれば、その答えも映画の中にありました。

なんでも、自分でやろう。やったらなにかがみえてくる。

これ。
なんでも、とまでは言わなくても、普段お金やサービスを介して得ているなにかを、自分のチカラでひとつやってみる。ということの積み重ねです。

なにが見えるか?は分からなくてよくて。
見えたからどんなメリットがあるか?なんてのもそもそも、なくて。

見えてくることを積み重ねたら、気づいたら自分らしい道になっているだけでした。アタマで考えているだけでは、どうりで分からないはずだ。これまでは、提供されているものを黙って受けとるだけだから見えてこなかったんだって、分かります。

ヒントになる動画をひとつ。

『人生フルーツ』の映画の前に、面白い映画の予告がありました。
普段なにげなく食べているカレーライスを、学生の手でいちから作ろうという趣旨のゼミがあったそうです。お米も、野菜もスパイスも、塩も、器も、そして肉までも…すべて自分たちで作ろうとするとどうなるか。

予告編とはいえなかなかの衝撃ですが、よかったら観てみてくださいね。

動画が観れない場合はこちらの概要を⇒『カレーライスを一から作る

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