究極の「ありのまま」などないから、探さなくていい。

久々の投稿になります。私のFacebookから引用しますね。

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私、結婚して1年間というものオフィシャルな側面を最小限に生きていたような気がする。ほとんどを家で過ごして、子供に戻ったような感覚。

そういう1年を過ごして分かってきたことがある。
そんな素の状態でも、家から一歩外に出た瞬間、「ありのまま」なんて存在しないんじゃないか、ってこと。少なくとも私はそうだし、そう思うな。外の人と接したときにまったく仮面がないなんて有り得ない。薄皮いちまいくらいはあるっしょ。そんなもんないわーって人もいるかもしれないね。憧れてみたこともあるけど、それは私じゃなかったという。

究極まで素のままに生きるとしたらずっと旦那と2人っきりか、それこそ1人で閉じこもるしかない。両親だってそう。母には言いやすいことも父には言いにくいとか、その逆だってあるしね。家族であると同時に他人なんだから、ある一線は越えれなくたっていいのだ。そういう意味では、軽さの度合いはあれど、無意識になんらかの仮面はついてるものだ、と思ったほうがしっくりくるんだわ。

問題は、じゃあどういうあり方ならより伝えたい自分が伝わるのかってこと。相手によっても違うだろうし、人によって変えないという方針ならそれはそれでいいし。答えはない。そしてそのあり方に、誰より自分自身がリラックスできてるかどうかが大事。
毎度毎度、それを感じ考えていくことで、より繊細な関係性、そして自分自身の人間像ができあがっていくんだろうなって思う。

こんなことを考えたのは、まさにそれが私の「存在意義」と関わっていたからで、根底まで突き詰めずにはいられなかったのよね。
なぜなら私は、カラーやファッションや接客、WEBデザインなど、人から視線を浴びるときにどうあるか、みたいなことに人生の大半を費やしてきたから。興味があったんだね。演出によって人は真逆の人間にすら見えてしまうことに。想像だにしてなかった可能性に目覚めることに。

「演出」って悪なんじゃないか?とか、ムダなのか?人を裏切ってないか?まで突き詰めたことすらある。震災の時なんか特にそうだった。

そして得た結論が、「ありのまま」と「それ以外」に明快な境界線なんかないってこと。だからありのままジプシーしなくていいなって思った。時間はかかったけど。ただ、そのときどきで、できるならばいちばん肩のチカラを抜いて接することができる人が身近にいてほしい。ただそれだけ(それも私の要求に過ぎないからね)。

そして何より、緻密に、繊細に考えられた演出を見て人は涙を流す。心を震わし、人生を変えることすらある。その可能性があるのであれば凡人の私でも少しは、その扉を開けてもいいんじゃないかと思った。飾らないことは家に帰れば、いつでもできるからね。帰る場所を見つけた今だから、ようやくそう言えるのかもしれないな。

私が「ありのまま」を定義づけるとしたら、そんな感じかな。

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