自分の伝えたい「核心」が伝わる、という手ごたえを得たい方へ。

今の私は、もはやシゴトだから、とかじゃなく、
個人的に好きでブログやメルマガを書いたり、読んだりしています。
(シゴトだからという理由(つまり取引みたいな気持ち)で読んでいても、どこにも幸せは産まないと思っているからね)

そして、読んでいて好きだなと思うのが、年を重ねるごとに、表現がより細密になっていく文章。
前提として、文章の読み手は、その人の勝手な解釈で読むもんです。いくら伝え手が「こういうことを核心にしてる」と思っても、その通りに受け取ってもらえるとは限らない。

それでも、それでもです。
あえて言うならば、より「正確」に自身の気づいたことを伝え、より「精密」に表現していけてる人の文章は、ホントに感心して読んでしまいます。ああ、すれ違った解釈は限りなく少なくなるんだ。できるんだ。そういう希望をあたえてくれるように感じるからです。人間の悩みのほとんどは人間関係にあり、その理由のほとんどはコミュニケーションの行き違いにある。ならば、誤解は限りなく少ない方がいいに決まっています。

そういう細密な文章を読んでいて、気づくことがありました。
書き手が表現したいものを、受け手がその通り受け取ってくれない理由。今思いついただけで2つほどあります。

<ひとつめ>
書き手が自分自身の思いの核心が何かを、誤解している。

分かりやすい文章の書き方の指針に、こういうのがあります。

◆中学生(小学生)でも分かるように書け。

これって的を射ているようで、この文章自体の解釈が多岐に分かれるような気がしているのです。つまり、
・分かりやすい=言葉が少ない。文章が端的。
・分かりやすい=言葉遣いがやわらかい。
・分かりやすい=具体例がある。

上記の指針を読んで、これくらい解釈が分かれることもあるんですよね。
で、今回は個人的に最初の例がいちばん気になるのですが…。言葉数の少ない文章って、短時間で読めるから、読み手にいちばん負担をあたえないような気がしてしまいます。ただ、文章表現の熟練者であれば、少ない言葉数でも含みを持たせた表現が可能かもしれません。でもそうじゃないかぎり、伝えられる情報量は文章量が減ると、おのずと減ってしまいがちになります(もちろん長けりゃいいってもんじゃないけど、ここではそれは置いといて)。
その減った分の情報量は、どうなるか。読み手の脳内で勝手に補われ、想像で解釈されてしまいます。つまり、分かりやすい=言葉が少ない。と解釈してしまった書き手は、「分かった気に」させてしまってるかもしれない。

そして、こっからが本題なんですが、端的すぎる文章を書いていることによって、書き手自身が自分の核心を誤解していく可能性もあります。「分かった気に」なっている読み手の反応もあいまって、それがどんどんとズレていく。自分のことなんだから自分がいちばん分かっている、誤解なんてないだろう、と私も思いがちなんですが。あらためて文章にして客観的に見ると、自分の言ってることズレてんなー(笑)って思うことも多々。

だからまずは短く絞って書く前に…

◆自分の思いの丈を出し切り、自分の目で見て整理してみること

がおススメです。
これができるだけで、あえて書き方を変えなくとも、おのずと文章の伝わり方が変わってくるはずです。

<ふたつめ>
個人の文章と、マスメディアが違うことに気づいていない。

ブログやFacebookが広まりだしたとき、それは飛び道具でした。時間も距離も越えて、自分の声が見ず知らずの他人に届くのだから。
でもすでに、こういうメディアは現実の世界に限りなく近づいてきつつあります。たしかに距離を越えて海外に届いたりはします。ですが、必然的に届くべき相手以上に届くことはないんだろうな、とも最近思っています。

どういうことかというと。<ひとつめ>で書いたように、文章というのはどんなに思いの丈を書いても、しょせん人間の考えのたった一部です。その切り取られた一部を読んで理解し、共感を寄せるには、やはり根底で文化や思想をある程度以上共有している必要があります。

たとえば、私は最近、スパイス料理にハマっています。日本には情報が少ないため、海外のインド料理の動画を観るようになりました。しかも、めっちゃインドなまりの英語です(笑)。が、「インド料理」というフィールドにもんのすごーく興味を持って掘り下げているので、フィーリングでだいたい分かるのです。これは文化の一部の「料理」を共有しているから。

フィーリングで理解(笑)。

それとは逆で、日本人のギャル18歳のAさんと、ブラジル人の農家の女性50歳のBさんとが、いきなり話が合いそうな感じはしませんよね。いきなりAさんのブログにBさんがたどり着いて読むようになるってことはほぼないはずです。ある一定の趣味嗜好や思想でも共有していない限り。これがもし、「山登りが好き」とか「キリスト教徒」という文化でも共有してたなら、言葉を越えて一気に距離は縮まるかもしれませんが…(笑)。

つまり、芸能人でもないかぎり、自分の経験値とか持っている情報を越える伝播力はないし、そうする必要もない、ということ。
また、いくら自分の言葉をひろめたいとはいえ、自分の持っている情報を誤解しそうな文化圏に、わざわざリーチしようとする必要はない、ということです。私たちはマスメディアではないですしね(てか、マスメディアですらそんなに興味持たれない昨今なのですが…)。

極端なことを話してきましたが…。
つまり、自分の言葉を、行間を越えて理解しようとする意思のある人に向けて語りかけること。今はいなくても、イメージするだけで違います。

このイメージができたときに初めて、<ひとつめ>の「分かりやすい精密な表現で書くこと」が活きてくるのだと、思います。ちょっとだけ自分に理解のある人、少なくとも興味のある人に、より深く理解してもらうことが大事です。みな忙しいので、そんなに正確に自分の文章など覚えてくれてません。だから、理解の浅い部分をより正確に、リアルに共有していくことで、しっかりと表現の足場が固まります。

突飛な表現をするのは、その足場が固まってからでも遅くないんじゃないか、そういう風に思います。

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